死にたくないと想った。心の奥底から、生きたいと想った。また彼女の泣き顔を見るぐらいなら、どんな手段を用いることも恐くはない。そう思えた。
あの血生臭い闘技場の中で、目覚めた瞬間、ふとそのことが頭をよぎった。目の前で真っ赤な花を咲かせて伏している鴉を見つけて、あぁ自分が生きているのだと思った。生きている。あの妖狐の力に助けられた。でもそれはけして偶然なんかではない。
彼女の笑顔を乞うには、傷つき死ぬことよりも、もっと困難な道を歩く覚悟がいる。
その覚悟を、俺はあの時に手に入れていた。
02 口付けを落とすスクリューが勢い良く回り、白い泡を立てる。速度を上げるフェリーが、どんどん首縊島を小さくしていく。それを眺めながら、本当にコレで終わったんだという実感が湧いてきた。
「はぁあ~やっと終わったねぇ。」
「そうですね。」
隣で腕を上げて筋を伸ばすぼたんを眺めて、同じコトを考えていたんだなぁと気付いた。でも今はみんな考えていることは同じだろう。向こうで雪菜ちゃんに武勇伝を語っている桑原君は別かもしれないけど。
「こうやってみんな無事に戻れるんだ。
本当に良かったよ。」
「はい。」
みんなという言葉に重みを感じる。幻海師範の死を心から悲しんでいたぼたんにとって、師範が戻ってきてくれたことが、何より嬉しいんだろう。確かに優勝者の望みは、必ず叶えられなければならないルールだ。だが、まさか本当に幽助の望みが叶うとは、誰も思っていなかった。コエンマも随分大胆な計らいをした。コエンマなりの、霊界探偵浦飯幽助に対する報酬のつもりかもしれない。
幽助も元は一度死んだ身で生き返ったと聞いているが、それは行き先がないための超法規的措置だ。それをいくら優勝者の望みだからと言っても、死んだ人間を生き返らせるなんて。おそらく霊界の頭の固い上層部から、色々とコエンマは言われているはずだ。けして言葉することはないだろうが。人の心を汲む計らいは、なんともコエンマらしい。
「コエンマ様も、私にぐらいちょっと言ってくれてもいいのにさ。
師範の魂だけ私に霊界に運ばせておいて、身体は自分が霊界に保管しに行ってたなんて。
二度手間だっただろうにさ。」
「きっと、過度な期待をさせないためでしょう。
プレッシャーにもなりますからね。
コエンマなりの気遣い、ということでしょう。」
温情と厳しい観察眼を持っているコエンマのことだ。自身の多少の手間やぼたんのが悲しむことも全て解っていて、それでもそうしたのだろう。
もちろんぼたんも、コエンマの意図には解っている。だが、あれほど悲しんでいたからこそ、少しぼやきたい気持ちも俺にはわかる。尖って拗ねたような唇が、それを証明している。
「わかってるよ・・・・解っているけどさぁ。
コエンマ様のケチ。」
そんな子供っぽい言葉を、少し笑ってしまった。すると、ますますぼたんは、ふて腐れてしまったようだ。可愛いなぁと思う。
「ぉおおい、誰かそろそろ飯喰いに行かねぇか。
俺、腹へっちまった。」
「あんた、朝ごはん食べてたじゃない。
まだ昼前よ。」
「ぅっさいなぁ、いいだろう。
減ったもんは減ったんだよ。」
上のデッキで、幽助と螢子ちゃんがわぁわぁといつもの痴話喧嘩を始めた。袖をずらし時計を見れば、確かにまだ11時過ぎ。昼を食べるには少し早いかもしれない。
「お前は先の修行で、霊的な許容量が前より格段に上がっている。
だが身体の回復で手一杯で、この間の戸愚呂との戦いで消費した霊力が、まだ完全に戻ってきてないね。
私の目から見て、6割から7割といったところだろう。
だから身体が物足りなさを感じて、腹が減ったような感覚に陥る。」
「なるほど。」
「だが、お前は霊光波動の継承者なんだ。
そんなんでもな。
霊力が戻るに連れて、身体の回復はスピードを上げる。
もう数日の我慢だろう。」
「そんなんでもは余計だ、ばばぁ!!!」
おそらく自身の経験からの言葉なのだろう。
それにしても、幽助とそれを諭す幻海師範。そのどちらもが嬉しそうだ。幽助もそうだが、幻海師範も楽しそうに見える。おそらく霊光波動を正式に継承させ、因縁のあったという戸愚呂との一件も片付いて、肩の荷が下りたのかもしれないな。
「まぁ少し冷えてきたしね。
着くまではまだ2時間ほどかかるし、中に入って、私達もお茶でも飲もうか。」
「そうですね。」
静流さんの案に雪菜ちゃんが頷けば、自然と桑原君も船内へと向っていく。上もそれに同意したのか、ゆっくりと船室に消えた。確かにここにいては、体を冷やしてしまうかもしれない。だが、多分今しかない。俺はそう思い、皆に着いて行こうとしたぼたんを引き止めた。
「ぼたん、ちょっと。」
「なんだい?」
「少し話があるんです。
お時間をいただけませんか?」
不思議そうな顔を首を傾げるぼたんの足が止まる。淡い赤味を帯びた瞳に覗き込まれると、俺の心が見透かされそうな気がする。胸の奥が硬くなり、声が震えていないかどうか少し気にかかった。これはひょっとすると、試合よりも緊張している。
「ぅお~い蔵馬、ぼたん?
行かないのか?」
一向に船内に入ろうとしない俺達に、桑原君がこちらに振り返った。俺には答えられない。ぼたんが返事をする数秒がやけに長く感じた。ぼたんが振り返る。
「蔵馬ともうちょっとココに居るよ。
先に行っといておくれ。」
「ふ~ん、解った。」
返事をしたのは、ぼたんのはずなのに、桑原君の後ろにいた静流さんが、一瞬を俺をチラリと見た。視線が合い、何かを含んだような笑みを見せる。その背中を見送りながら、桑原君以上に侮れない人だなと思う。桑原家はどうも霊的感度が高い家系のようだけれど、おそらく桑原君以上に鋭いのだろう。あの人は、俺でさえ気付かないようなことさえ知っているような、そんな気がする。
「で、なんだい。
改まって話しって。」
俺と静流さんのコトなど何も気付いていないだろう。ぼたんがのんびりとした口調で話しかけてきた。柵に身体を預けて、こちらを見ている。いつの間にか飛影の気配もなくなっていた。おそらく気を使ってくれたんだろう。彼がこういう気の回し方をするのは、珍しいことだが、今はそれを素直に感謝しておく。
潮風に流されて、ぼたんの空色の髪がはためいた。いつもと変らないぼたんに、俺は、ポーカーフェイスは作れているだろうか。改まって言うのだと思うと、なんとなく言葉が詰って、俺は小さく咳払いをしてから話始めた。
「貴方の欲しい物を、聞いておこうかと思ったんです。」
「欲しい物?」
「以前約束したでしょ?
あの島にいる間に、一人歩きをしないでくれたら、いいものを上げますって。
してないんでしょ?一人歩き。」
俺の言葉に、ぼたんは思い出したらしく、パンっと一つ手を打った。
あれは、準決勝の前の日だった。試合会場で妖怪に絡まれていたぼたんを助けたときに、そう約束したのだ。あの時はまだ、何を渡すかは伝えていなかった。手にできるかも解らなかったけれど、確かに約束をした。そして手に入れることも出来た。ぼたんのおかげで。
「あぁ、一人歩きはしてないけど。
だからって欲しい物って・・・・。
あんとき、あんたはいい物をくれるって言ってたじゃないか。
くれるものは、決まってたんじゃないのかい?」
「えぇ、だから何でもいいんですよ。
もっとも、大会本部と違って、俺が用意できる範囲内で、ってことになりましたけどね。」
俺の言葉に、ぼたんは俺の言わんとすることを察したらしい。目を丸くして、口をパクパクと動かしている。声は出ていないけれど。言いたいことはなんとなく解った。
「まさか・・・ちょ・・・ちょいとまっとくれよ。
じゃあなに?あんたがあの時に言ってた、いい物って・・・。」
「大会の優勝者が何でも叶うって言う願い事。
それを貴方にあげるつもりだったんですよ。
悪い物ではないでしょ?」
「そんな!!
もらえるわけ無いだろう!!」
「どうしてですか?
まぁ貴方の願い事によっては、数年がかりになるかもしれませんけど、努力はしますよ?」
解っていたくせに問い返す。意地が悪いなぁと我ながら思う。渋るだろうなと解っていたので、返す言葉も澱みなく出てくる。話していて少し緊張がほぐれたようだった。
「そうじゃなくて!!!おかしいじゃないか。
あれはあんたが頑張ったから貰うものだろう!!
それをなんで私が・・・」
「で、その俺が貴方に貰ってもらいたいって言ってるんです。
全然おかしくないですよ。」
「でも・・・・」
元々、俺自身もそれ程欲しい物があったわけでもなかった。戦いに勝って、生きて帰れるだけでも幸運だと思う。そして何より、今こうして生きていられるのは、俺の力じゃない。
「貴方には今回何度も傷を治してもらいましたし。
それと・・・貴方は俺達を信じてくれた。
だから、今こうして生きていられる。」
きっと彼女は気付いていないだろうから、今日はそれを伝えたかった。言葉にして、形になれば、何かがつかめる気がした。
凍矢の言っていた光。その先にあるものを、俺は知りたい。
「あの鴉との闘いから立ち上がったとき、俺は戻りつつある妖狐の力に気付きました。
それからずっと考えていたんです。」
「何をだい?」
「どうして、このタイミングで、妖狐の力が戻ってきたのか。」
考えてみれば、それは不思議なことだ。確かにこの数年も身体が成長する程に、妖気が高まることには気付いていた。だがそれは以前と比べれば微々たる物で、元の妖狐の姿に戻ることは出来ない。だからこそ俺の憑依は同化に近いのだろうと思っていた。
それがこの大会。それも決勝戦と言うときに、妖狐の力が戻ってくるなど、ただの偶然にしては、あまりにも出来すぎている。だったら何かしらの原因があるのではないか。俺は決勝が終わり、怪我を治している間ずっと考えてきた。そして、その答えを見つけた。それがぼたんだった。
「母さんを母と慕い始めたときから、俺は心のどこかで、妖怪としての自分を否定してたんです。
俺と母さんと違う。
俺はけして”人間”に成れない。
無意識に、そのことを心のどこかで、ずっと引きずってた。」
その想いは少し苦く、柵を握る手が強くなる。ぼたんを見ることが出来ず、遠い海の果てを眺めた。思い描いたのは、昔のこと。母さんの子として生まれ、愛されて育った日々のこと。
あの頃の俺は、今思えば妖怪としての力の必要性を感じながら、受け入れきれていなかった。力を使えば使うほど、自分が妖怪だと思い知らされる。そのことが辛かった。そう思っていた節は、幾つもあった。
妖怪は忌むべきもの。その意識があったからこそ、母さんの前から姿を消すべきかも知れない。でも俺がいなくなった後の母さんを思うと、どうしても迷いが生まれ、踏み切れなかった。死んで消えるということも、考えなかったわけでもない。だから保身を考えない戦い方も多くしてきた。
でも、あの日それは変った。
「でも、あの時。
ぼたんが俺達を心配して、俺達の無事を心から願ってくれているのだと知ったとき、思ったんです。
どんな手段でもいい。
それでも勝ちたい。
生きて・・・生きていたいって・・・心から思ったんです。
だから妖狐としての力を、取り戻すことが出来た。」
母さんの為なら死を覚悟したことがある。でも、ぼたんの為なら生きたいと思った。この命が惜しい。死にたくない。例えそのためなら、妖狐でも、母さんと違う生き物になっても構わない。
その想いがあったからこそ、妖狐の力を取り戻すことが出来た。勝てなかったけれど、生きて、こうして今、彼女と共にいられる。
柵から手を離し、ぼたんに向き合う。二人をすり抜ける風が強い。少し幼けない表情をした彼女が俺の言葉を待っている。伝えたいことがある。それは、言葉では足りないほどの感謝。
「あの鴉との闘いで、俺を助けてくれたのは、貴方です。
改めて、ちゃんとお礼を言いたかった。」
生きたいと思うこと。
ぼたんの為に生きていたいと思うこと。
ぼたんと共に生きていたい思うこと。
それは、叶うならこれからも、ずっと。
ずっと、傍に居たい。
「ありがとう。
俺を、助けてくれて。
俺を、生かしてくれて。」
言葉にして、音にして、それは確信に変った。
それは、彼女が愛しくてならないから。
俺が、ぼたんを好きだから。
「ありがとう、ぼたん。」
光があって、世界が初めて色を持つ。眩いばかりの光の先に、ぼたんがいた。
ずっと、その前兆はあったんだ。でも、それに気付くには闘いが続き過ぎていて、心が休まるときが無かった。でもやっと気付くことが出来た。
その時、ぼたんの目からポロリと滴が落ちた。ゆっくりに流れ落ちたそれは、ぼたんの頬を伝う。風に流されないように、俺がソッと指を伸ばしそれを拭うと、ぼたんは漸くそれに気付いたように慌てだした。
「えっ・・・あぁごめんよ。
いやとかじゃなくて、あの・・・。」
「はい。
少し、驚かせてしまったんですよね。」
出来る限りの優しさを声にする。傷付けたくない。突然襲ってくる悪意の刃にも、俺の持つ狡猾の棘にも傷つかないようにしたい。彼女の持つ空気の一片でも壊したくない。
彼女を見て、初めて知る。自分の中に、これほど他人を思える心があるのかと。底が深すぎて見えないほどの。それが嬉しくてしょうがない。
「私の方こそ、ありがとうね。
約束、守ってくれてさ。」
柔らかい笑み。ぼたんの手が、涙を拭っていた俺の手を取った。動けなくなった手は、ぼたんの頬と手に挟まれて、じんわりと暖かさが全身に伝わっていく。照れくささと愛しさ。心が浮き立つような感覚は、初めての物だった。
だから俺は、その時油断していたんだろう。暗黒武術会優勝チームの一員ともあろう者が、こんな隙を作ったなんて、他の妖怪に知られれば命が危うい。
いや、ぼたんなら、いとも容易く俺を殺してしまえる。
俺の魂を握るのは、こんなにも可愛らしい死神。
生かすも殺すも彼女の心一つ。
引き寄せられた身体が傾く。歪む視界に一瞬平静さを失った。距離はない。
そして俺の頬に触れたのは柔らかな感触。ほんの一瞬の温もりと吐息。
死神の祝福に、俺の心臓は確かに止まった。
「願い事、考えとくよ。」
そういって、俺が返事もできないでいることにも気付かずに、彼女はくるりと振り返って、船室へと消えていった。悪戯めいた笑みは、なんて凶悪なものなのか。
俺はへたり込みたくなる気持ちを堪えて、柵に寄りかかる。吹き付ける風だけが、俺の思考を冷やそうとしてくれる。頭の中で、何か熱のようなものが響いて揺れていた。
どれほどの願い事を言うつもりなのか。命を救われ、こんな恩恵を受けて、どんな願い事を叶えれば釣り合うのか。それは、俺にはまるで検討もつかないことだった。
END

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