バージニアと言う女の子の”サンタクロースって本当にいるんですか?”と言うお話は、知ってられる方も多いと思います。
知らない方が居られるかもしれないので、一応簡単に書きますね。
知っている方は、どうか飛ばしてください。
今から100年以上前のアメリカでのお話です。
バージニアという当時8歳の女の子は、サンタクロースが居ると信じていました。
ですが、同級生に「居ない」と言われて、本当に居ないのか父親に聴いてみました。
すると父親は「新聞記者の人に聞いてみてはどうだ?新聞記者ならいろんなことを知っているから」と言われて新聞社に手紙を書きました。
当時から新聞記者ってとっても権威ある仕事だったそうです。
(今も大変なお仕事だとは思いますが)
で、その手紙を貰ってとある新聞記者がこんな返事を書きました。
「バージニア、サンタクロースは、居るのです。
私達の住んでいるこの限りなく広い宇宙では、人間の知恵は、ありのように、小さいのです。
その広くまた深い世界を推し量るには、世の中のこと全てを理解し、全てを知ることができるような、大きな深い知恵が必要なのです。
サンタクロースが居ると言うのは、決して嘘ではありません。
人への思いやりや、真心があるのと同じように、サンタクロースも確かに居るのです。
世界に満ち溢れている愛や真心こそ、貴方の毎日の生活を、美しく、楽しくしているものなのだということは、貴方も知っているでしょう?
サンタクロースが居ないというのは、貴方のような可愛らしい子供が居ない世界が考えられないのと同じことです。
例え、サンタクロースを捕まえることが出来なくても、それが何の証拠になるのでしょうか?
サンタクロースを見た人はいません。
けれど、それはサンタクロースが居ないという証明にはならないのです。
この世界で一番確かなこと、それは子供の目にも大人の目にも見えないものなのですから。
赤ちゃんのがらがらを分解して、どうして音が出るのか、仕組みを調べることはで着ても、目に見えない世界を覆い隠している幕は、どんな力の強い人にも引き裂くことはできません。
ただ信頼と、想像と、詩と、愛とロマンスだけが、そのカーテンを一時引きのけて、幕の向こうの例えようもなく美しく輝かしいものを見せてくれるのです。」
この記事は、それからも何年もクリスマスの記事に載ったそうです。
私がこのお話を知ったのは、高校生の時でした。
そのときは、内容を人づてに聞いて、いいお話だなぁと思うだけでした。
数年して、専門学校に行っていたときに、偶々本屋さんで見かけて本を購入しました。
もちろん今も私の隣にあります。
何もこのお話が言いたいのは、サンタクロースと言うだけでは無い気がするんです。
大切なのは、目に見えない不確かなものを信じるということ。
それは目に見えない妖精やサンタや神や鬼かもしれません。
でも、それよりもっと大切なのは、気持ちなんじゃないでしょうか。
例えば、両親がくれる愛情や、友達を思う気持ち。
恋人や会社の仲間に対する信頼。
そんなものは、何一つ目に見ることはできません。
でも、サンタクロースを信じるというのは、それらを信じるのと同じことなんじゃないでしょうか。
誰かを大切に思って、誰かに大切に思われている。
そんな目に見えないものを信じられるなら、サンタクロースだって信じられるんじゃないでしょうか?
親が子供を殺し、子供が子供を傷つけ、夫が妻を殴る。
そんなことが横行している世界で、大切なのは、目に見えないものを信じられるか?ということ。
目に見えない不確かで、あやふやなもの。
算数のように1+1=2なんて数字にも表せない。
そんなものを、確かにあると証拠もなしに、言えるかどうか。
だって目に見える確かなものを信じるなんて言わないですよね。
それは唯、”知っている”っていうだけ。
そうじゃない、信じるということ。
少し話が変りますが、今回の冒頭で、我が家が浄土宗だということをお話しました。
実はこれも少し似ているんですよね。
家もそうなんですが、実は私が行っていた高校もこの宗派なんですよね。
で、そこで習ったのですが、浄土宗の教えというのは”南無阿弥陀仏と唱えれば、善人でも悪人でも浄土(=天国のようなもの)へ行ける”と言うものなんです。
・・・・おそらく知らない人からすれば、なんじゃそりゃ?って思うかもしれません。
実は私はそう思いました。
悪人もそんなに簡単に救うのかい!!!みたいな。
なんでそんなとんでもないことを・・・と思われるかもしれませんが、この宗派を開いたのは、法然上人というお坊様なんですが、この方がこの宗派を作った当時、都が凄く荒れていたそうです。
民は貧困の中にあって、役人が暴利を貪る。
宗教でさえも、当時は権力争いに加わる状態。
そうした状況の中で、法然上人は仏教の教えを広めようとします。
ですが、教えを広めたい民の中には、生きていくために人を殺した武士や、盗みを働いた者も居ます。
そこで考えられたのが、上記のように”南無阿弥陀仏と一心に唱えれば、浄土に行ける”ということでした。
まぁ・・・この説明だけでもまだ、多分なんか変と思うかもしれない。
でもね、ある意味コレって真実なんじゃないと思うんです。
神様が人を作ったわけでもなく、人が神様を作っているんですよね。
法然上人が困っている民を救いたいと思って作ったように。
神様が居るとか見えるとか、そんなことじゃなくて。
誰かが誰かを助けたいと思う気持ち。
それが大事だったんじゃないでしょう。
神様が居る、唱えるだけで浄土へ行ける。
そういわれることで、やっぱり当時の人たちは安心したり、心が落ち着いたりしたんじゃないでしょうか。
でも、別に宗教に限らず、コレって誰でも思いますよね。
目の前に困っている人がいて、その人が泣いてたり苦しんでいたりして。
多分見ず知らずの人だって、私は助けてあげたいっていう気持ちになります。
助けてあげられるかどうかは別だけど、心配したり大丈夫かな?っておもう。
そういう気持ちが大切で、そういうものが大事だから、神様とか御仏とかっていう名前をつけて大切にしている。
私神様ってそういうものだと思ってます。
まぁ、だから私にあるのは、信仰心というものからは、程遠いと思うのですが。
お坊様に怒られそうな気さえする。
最近ワイドショーとかでも、宗教で騙されたとか、何か買わされたとか。
そういうものを見るたびに、不思議になります。
お金払わないと、救わないなんて。
そんなものをどうして信じるんだろう・・・って。
神様って、お金払ったり、何か買わないと、救わないなんていう心の小さいものなんでしょうか?
私違うと思います。
そんなの神様じゃない。
少なくとも、そんなお金で買った目に見える神様だったら、私は要らない。
サンタクロースから少し離れたような気がしますが、どちらも目に見えないものを信じるということですよね。
何故サンタクロースが生まれたのか。
これほど長く語られて、大切にされているのか。
大人が子供に大事にそういうものを大事にして欲しいと思っているからじゃないでしょうか?
絵本に夢を描くように、サンタクロースを通して、目に見えないものを信じて欲しいからじゃないでしょうか?
もう20代も半ばになって、それでも私はサンタクロースが居るといいます。
いえるんです。
私はこの年になってもまだ、サンタクロースから、毎年プレゼントを貰っています。
目に見えないものを知ろうとする気持ち。
このおかげで、大変なこともあるけれど、とても大切なものを得られたと思うから。
今朝、晴れた空に虹がかかっていました。
それも、綺麗な半円の虹です。
切れた虹は幾らでも見たことが有りましたが、これほど綺麗な半円は初めて見た気がしました。
その写真

虹は神が人間とした二度と人を滅ぼす洪水を起こさないという約束に証だそうで。
信じてくれる人がいないとやっぱり神様だって、寂しいんだろうなぁって思う。
誰だって一人は寂しいと思うから。
皆さんが良いクリスマスを過ごされますように。

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