新八は、この日々を幸せだと思っている。
たとえ給料が不定期で2月はおろか、3ヶ月滞納されようと、雇い主の住居兼職場の家賃が3ヶ月は滞納していようと、夕食どころから朝食にさえ頭を抱えることになろうとも、幸せかどうかときかれれば、悔しい気持ちをねじ伏せて、幸せだと笑うだろう。きっとそれらの問題を抱えていても幸せだと言い切れるのは、他の誰よりも多くの幸せを享受しているのではないかとさえ思う。だからどんな苦しさや困難の中にあっても笑えるのだと思う。だから、全てに感謝したくなる。
先ずは、生み育ててくれた両親。そしてその両親を亡くしてから、ずっと自分を守ってくれた姉。本音をぶつけ合える友人や親衛隊のみんな。自分の価値を見失っていたときに、励ましてくれた憧れの歌手。いつも滞納気味の家賃がありながら、訪れればご飯を食べさせてくれる階下の家主。本当に多くに人に支えられて、自分の幸せが存在している。感謝してもしたりない。
しかし、その中でも特に、感謝しそして大事に思っている人たちが居る。
妹の様でもあり、同僚であり、この場を大切に思い、共に強くなっていくことを誓い合った同志である神楽。神楽の宝物であり、いつもここに居てみんなを見守ってくれるペットの定春。
そして、坂田銀時。
いい加減極まりなく、下品な言葉ばかりを話し、これでもかと言うほど糖と取っては糖尿病寸前になって、いつもぐうたらとばかりで。一見すると、尊敬できるところなんて見当たらない男だと言うのに、どうしようもなく新八を惹きつける輝きにあふれている。それはおそらく、今では少なくなった侍の魂と言う奴なのだろうと思う。
だから、それとは関係が無いと、言い聞かせて、新八は布団を深くかぶった。
How to find a gentle kissふと、新八の意識が覚醒した。夢を見ていたのか、いないのかさえ分からないほどの曖昧な感覚。倦怠感に指先まで浸っている。辺りがまだ暗くが少し青みがかっている。もうすぐ夜明けか、と気付いたとき新八は、身を固くした。
「はぁ・・・はぁ・・・ぅん。」
自分ではない、誰かのうめき声だった。それは新八の背後から聞こえ、あぁまたかと新八はもう一度を目を固く伏せた。
誰の声かなど確認するまでも無い。自分の後ろで唸っているのは、銀時だった。おそらくまた悪い夢を見ているのだろうということも。
初めて、銀時の悪夢に目を覚まさせられたのは、まだ新八が勤め始めてすぐの頃だった。まだ定春どころか、神楽もここには住む前の話だ。どこかのバカ皇子の巨大ペットが暴走して、新八が食べられそうになった日がはじめてだった。疲れ果て、今日のように和室で二人で眠っているときに、同じように目を覚ませば、銀時がうなされていた。もちろん新八は、起そうと考えた。しかし、銀時の身体に手をかけようとした瞬間、新八の触れようとした手が止まった。
唇が人の名らしきものを呟いたのだ。
誰の名かは分からなかった。それから何度もこんなことがあったが、同じ名前だったかは分からない。少なくとも新八も知っている名は無かった。何よりしっかりと聞き取れたわけではなかったのだから。
しかし、何かを語りかけるような響きではなく、明らかに誰かの名を呼んでいた。その事実に、新八は伸ばした手を引き込み、もう一度布団に戻った。そして寝たふりを続けた。銀時が目を覚まし、そして洗面台へ行って戻り、もう一度眠りに付くまで、息を殺し寝たふりを続けた。何度も何度もそんなことを繰り返し、自分の力の無さを責めた。
思ったとおり、しばらくすると銀時は静かになり、そして自分で目を覚まし、しばらくはぼぉっとしていたようだが、起き上がると洗面所へと向かった。銀時の足音が無くなってから、新八はほっと息を吐いた。そして、心の中で繰り返した。ごめんなさいと言う謝罪を。
起してあげたほうがいいに決まっている。悪夢なんて見たいものじゃない。
もちろん新八も、怖い夢など何度も見たことがある。幼い頃であれば、それは大体は幽霊やお化けの夢だった。今は平気だが、小さい頃は怖くてたまらなくて。そんな時は、とにかく姉の部屋に行って、一緒に寝てくれと強請ったのだ。そして姉にどんな夢だったかを話して聞かせて居るうちに、安心して眠ってしまう。今思えば、姉も幽霊やお化けは大の苦手なのに、それでも嫌がられたことは無かった。
そんな新八が悪夢を怖がらなくなったのは、初めて父の夢を見た時だった。夢の中の父は病床の父だった。やせ衰えた身体を布団に横たえ、息も苦しそうだった。その中で、どうして救えないのかと苦しくて苦しくて溜まらなかった。血を吐き、苦しいと呻く父が僕の手を掴んで、目を覚ました。
目を覚ましたとき、頬は涙に身体は汗にぐっしょりと濡れていた。起きた瞬間に酷い夢だと思った。しかしそれでも父に会えたことは嬉しかった。酷いけれど幸せだと。例え夢の中でも、もう夢の中でしか会えないのだからと思えば、どんな苦しい夢でもそれでいいと思ったのだ。そしてまた、どうして自分はこんなに酷い息子なのだろうと申し訳なく思った。父を苦しめてそれでも会いたいと思うなど、なんていう親不孝だと。
結局、新八は自分が恐れているのだろうと分かっていた。銀時の過去に触れることを恐れている。
もちろん、例え銀時の過去がどんなものであろうとも、それで今の銀時を下げずむような事は、絶対にないと言い切れる。今の銀時に新八は救われたし、信じている。過去の銀時を含めた今の銀時が、新八にとっては全てだ。
だから、恐れているのは、銀時の過去そのものではない。
足音が近づいてきた。ゆっくりとノタノタとした足取りに、新八は目を瞑り、布団をかぶりなおした。襖が静かに開いて閉じられる。いつもこのまま銀時は自分の布団に戻る。そのはずだった。
しかし今日は違った。しばらく立ち止まり、小さくため息を吐くと、新八の目の前に回りこみ腰を下ろした。動揺に、新八は呼吸の仕方を忘れた。表情はどうだっただろうと、緊張に強張り、唾液を飲み込む。
「・・・新八。」
呟く銀時の声は、とても小さかった。しかしそれが自分が起きているからなのか、それとも寝ている自分に向けてなのかがわからない。新八は構わず狸寝入りを続けた。知りたい。しかしそれは許されているのか。
怖いのは、銀時の過去そのものではない。それを知ろうとしたときの銀時の反応こそが、新八は怖かった。銀時が意図して隠しているのか、それとも言わないだけなのか。それは判別できない。踏み込むことを許してくれるだろうか考えると、不安だったのだ。
銀時の背負っている悪夢が、何なのか。新八には分からない。しかし誰だって、触れられたくない過去など持っているものだ。それを自分の知りたいという気持ち一つで暴こうとすることすることが、許されるのか。残酷ではないか。信じているのなら、知らなくてもいいのではないか。そう思った。
だからこそ、新八は目を伏せ続けた。知ってはいけないのだと。銀時がいつか自分から口にするときまで、知らない振り、気付かない振りを続けるべきだと。
だが、新八の思いとは裏腹に、銀時の手が新八にはっきりと触れた。その手は、いつもよりずっと優しげな手つきで髪を梳き、頬を撫ぜた。まるで優しい目覚めを促すように。
どうして、どうしてだと、まるで裏切られたような気にさえなりながら、新八は目をきつく瞑った。もう自分が狸寝入りしていることに、銀時が気付いているかどうかなど、新八にはどうでもよくなっていた。
「新八・・・もう起きていいぞ。
待たして、悪かったな。」
その一言は、決定的だった。
新八は恐る恐る目を開ける。ゆっくりと目が闇に慣れていき、銀時の顔が見えた。メガネが無いため、少しぶれそうになる焦点を、なんとか引き絞る。銀時は先と変わらずに、新八の頭を何度も撫ぜた。
「ずっと・・・寝たふりしてくれてたな。」
銀時の問いに、新八はこくりと頷いた。そのことには、新八は驚かなかった。自分の狸寝入りに、銀時が気付いているのではないか。新八がそう思ったことは何度もあったからだ。勘のいい銀時ならば・・・と思いながら、それでもそんな自分に何も言わないのは、やはり銀時が知られたくない、言葉にしたくないと思っているからだと、決め付けていた。
新八は、身体を起し、布団の上で正座をした。銀時はいつもと変わらず足を立てて座っている。真っ暗な闇の中で、二人でこうして向き合うことを、新八は心のどこかで恐れていた。
「すみません・・・起さなくて。」
「ぃんや、それはいいさ。
別に、悪いだけの夢ってわけでもねぇからな。
でもまぁ、もう起してくれてかまわねぇよ。」
「・・・はい。」
そう言う新八を、銀時はまた頭を撫でた。労わるような撫で方に、涙を堪えるのに新八は必死になった。喉を這い上がってくる熱に、身体全体が震えそうになる。
「昔の夢だ。
ヅラや坂本らと戦場に居た時だったり。
でも今日は・・・お前や神楽よりも、もっとちっこい頃の・・・だった。
久しぶりに、会ったわ。」
銀時の言葉に、新八は胸が痛かった。自分よりももっと小さな頃から、銀時は悪夢を見るほどのことがあったということだ。それを乗り越えて、銀時は新八の目の前で優しく笑っているのだ。それを思うと、痛くて悲しくて。
「・・・しょうがねぇなぁ。
お前が泣くことじゃねぇだろう。」
銀時が手の甲で、新八が堪えきれなくなった涙を拭った。
苦しかった。痛かった。悲しかった。こんな優しい人が、いつも誰かを守ろうとばかりする人が、どうしてこんな苦しい思いばかりをしなければならないのか。そう思うと遣る瀬無くて、拭われても、掌で暖められても涙が止まらなかった。何より、そんな人を守ることも出来ない自分が、力のなさが、弱さが悔しかった。
みんなに感謝している。いろいろな人に、幸せを与えてもらっている。でも、誰よりも新八に幸せをくれたのは、銀時だった。銀時に出会って、全てが変わった。姉を取り返したことも、神楽や定春と言うもう一つの家族を得られたことも、仕事を通して誰かを守り、そして笑顔をいっぱい見ることが出来たことも。そんな幸せな場所と時間をくれた人。
なのに、どうして自分は、この人に幸せに出来ないのだろう。悪夢一つからも守って上げられないのだろう。そう思うと悔しかった。
戦場も知らない。命のやり取りなど、銀時の傍でしか経験したことが無い。聞いたところで、銀時の苦しみを少しもわかって上げられない。本当は、心のどこかで気付いていたのに。
本当に銀時を助けたいと思うなら、銀時の苦しみに触れなくてはいけないことを。
怖かった。いつも自分に、これ以上無いほどの幸せをくれる銀時。そんな銀時の役に立てない自分を、知ることが怖かった。知ってしまえば、そんな罪深い人間は、もう二度と幸せなど味わえないと思えて。結局自分が銀時の過去をから目を背けていたのだ。銀時を気遣うふりをして。
怖かった。
たまらなく怖かった。
でも。
「銀さん!!」
飛びついてきた新八を、銀時は咄嗟に受け止めた。首に縋りつくようにきつく抱きついてくる新八を、それでも銀時は倒れることなく受け止めた。しかし今度は新八が、その銀時の背を撫でた。大きくて、とても撫で切れないほど大きかったけれど、それでも何度も新八は撫でた。
「銀さん・・・僕、強くなります。」
腕を緩め、銀時の目を真っ直ぐに見つめて新八が言った。しかし銀時には、新八の言葉の意味がまったく分からなかった。だがその目が、暗闇でもはっきりと分かるほど、輝きを放っている。それはぎらぎらとしたものではなく、優しく暖かな輝きだった。
「銀さんが、そういう夢見ても、うなされなくなるように。
もっと強くなって、銀さんの手に銀さんの大事なもの、ずっと掴んでいられるように。
銀さんが手を伸ばした全部、守れるように、僕が強くなります。
きっと・・・・。」
今はまだ足りないだろうと思う。大言壮語も甚だしいし、まだ守られていることの方がずっと多い。でもこのままでは居たくない。幸せだから。それを伝えたい。
彼の傍に居られて、本当に何よりも幸せだと思うから。たとえ糖尿寸前の下品なマダオであっても。給料の支払いを3ヶ月以上止められても、彼の傍いい。けして器用でもなければ、役に立ててもいない。そんな自分を何も言わず傍に置いてくれる。そんな銀時を守りたい。過去からも未来からも、今の銀時を守る。だからその為に、もっと強くなりたいと思う。不安にさせないぐらい、強くなる。
伝わっただろうか?新八がそう思うほど、銀時は瞬きを繰り返していた。しかし数秒の沈黙の後、銀時は笑った。珍しく顔をくしゃりと歪めて、嬉しそうに苦笑いを見せた。
「じゃあ、なんでお前は、俺の手に納まっててくれねぇかな?」
「えっ?」
今度は、新八が瞬きを繰り返す。意味が分からなかった。しかしそんな新八をよそに、銀時の笑みは消えない。ため息を一つ吐いて言った。
「お前はでっかすぎて、俺のちっこい手じゃ掴みれねぇよ。」
その一言に、やっと納まったはずの涙が、涙腺を壊してぼろぼろと落ちていった。
「・・・銀さんの・・バカぁ・・ぅそつき。」
「嘘じゃねぇよ。」
銀時の大きな手が、新八の頭を引き寄せた。銀時の肩に顔をうずめて、新八は泣き、嘘だと嘘だと、心の中で何度も呟いた。涙で声にならない分も、心で叫んだ。こんなにも大きな手をしている。自分をひきつけて止まない輝きを持っている。そんな輝きに吸い寄せられるようにして、今の自分は、しっかりと銀時の手におさめられていると言うのに。
納まっていないのだという。なんていう馬鹿だろう。そしてなんて大きな侍なのだろう。人が良過ぎるにもほどがある。
「寝るか?一緒に。」
「はい。」
銀時の服の袖で涙を拭われて、二人は一緒に新八の布団に入った。銀時の胸に顔を寄せ、腕に包まれる。新八は目を伏せた。そして、一つ夢を見た。
銀時は、懐かしい場所に居た。幼い頃にすごした恩師の家の庭に、いつの間にか銀時は立っていた。先ほどまで背負っていた同志は、いつのまにか消えていており、甲冑姿だったはずが、いつもの着流しを着ていた。珍しいこともあるものだと思った。悪夢の終わりが、これほど穏やかだったのは初めてだ。
銀時は、コレは夢だと分かっている。きっともうすぐ目覚めるのだろうということも。昔の夢など何度も見た。戦場の夢はいつもいつも悲惨な終わり方だった。亡骸になった戦友に首を絞めらた事もある。だが、今日は違うらしい。
どれほどそうしていただろう。家の中から、懐かしい人が出てきた。最後に見た姿と寸分変わらない姿。にっこりと唇に笑みを乗せている。懐かしさに銀時の胸が痛んだ。
「銀時。」
名を呼ばれて、ゆっくりと傍による。縁側に立つと恩師の方がまだ視線が高い。見上げると、頭を撫でられた。昔と変わらない撫で方だった。そしてその指先は、そのままスッと銀時の後ろを指差す。そこには、新八が立っていた。ひどくしょぼくれた顔で、こちらを見ている。どうしたのか、また彼の大事な者を傷つける何かあったのか。
しかし声が出ない。足も動かない早く傍に行きたいのに。大事なのだ。あの子供がとても大事だ。あんな顔をさせたくない。
戦場も知らない、血の生臭さもまだ覚えていない。そんな子供の描く理想が、自分にはとても大事だ。綺麗で、自分ではもう二度と描くことの出来ない理想を、守りたい。せめて彼が、自分の手から巣立つその日まで。だから動け、動け。新八の傍まで。
その時、ふと手に暖かさを感じた。ぬるい湯のような暖かさに目を向けると、そこには師が自分の手を握っていた。幽霊なのに、夢なのにその手は暖かく、そして軽く自分を引っ張った。
するとおかしなことに、足はあっさりと動いた。そして新八の元へ歩いていく。
「良かった。
本当に、良かったね、銀時。」
その言葉に、銀時は理解した。伝えたかったことが、もう伝わっているのだと。本当は、ずっと彼に伝えたかった。ともに過ごした頃から、ずっと自分が欲しかったものが、今、自分は得ることが出来たのだと。神楽、定春、そして新八。
「あぁ。
おかげさんで。」
他にも伝えたいことがあった。最後のときにも伝えられなかったこと、あの後何があったのかも、全部伝えたかった。だが一番大事なことが伝わっていたことに、銀時は満足しきってしまった。そしてそれだけでいいと。幸せな今を伝えられたら、もうそれだけで良かった。
新八の元へとたどり着く。自分を不安気に見上げている新八を見て、銀時は気付く。あぁ、こんな顔をさせたのは、他の誰でもない。きっと自分自身なのだと。自分が過去に囚われていたことに、誰よりも心を痛めていたのは、この不器用で優しい子供だった。
銀時を掴んでいた師の手が、今度は新八を撫でた。酷く戸惑ったような顔をする新八に、師は何かを伝える。唇は確かに動いているのに、音は銀時まで伝わってこない。しかし新八には伝わっているのか、新八も唇を動かしていた。しばらくして、短い会話が終わったらしく、師が銀時へと向き直った。
「じゃあ、早くいっておあげなさい。」
「・・・そうだな。
じゃぁな、先生。」
銀時はそう言って、新八の手を掴んで歩き出した。戸惑うように自分についてくる新八に、銀時は構わず歩き続けた。そして生垣を越えると、そこで夢は終わった。END

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