「岸田美依子って・・・知ってるだろう、志村。
そいつもいたみたいだけど・・・死んじゃったね、みんな。」
時生は、何を言っているのか理解できなかった。今、何故彼女の名前を聴かなくてはいけないのか、と思うので精一杯だった。それも闘いの最中に現れた、妖魔から聞くにはあまりに不釣合いな名前だ。
そして同時に、走馬灯というのは、きっとこういうものなのだとも思った。冷静だったわけではない。これは闘いに身を置く彼の性のようなもので。一瞬で美依子の顔が脳裏に浮かぶ。笑い怒り、時には沈んだり、コロコロと変る表情が浮かんで消えた。何故消えるのか、死んだからだ。そう聞いたからだ。そこまで考えて漸く時生は声が出た。
だが、それより早く、反射した光が目に入った。それが次の瞬間には、真っ暗に染まっていた。痛みはない。それよりも先に、彼は自分の迂闊さを呪った。敵を前にしながら、心は脳裏に浮かんだ彼女を追って背を向けた。敵の言葉に我を忘れるなんて、失態以外何ものでもない。
理由は無かった。
それでも、自分はその一瞬。
全てを忘れた。
使命も目的も全て忘れて。
彼女の姿を追っていた。
蕾テレビが今日一日のニュースを読み上げている。天気予報で、明日も残暑が続くと告げる。もう直ぐ、毎週時生が見ている夕方のアニメが始まる。もちろん録画の準備も万全だ。緑茶が仄かに香っているこの居間は、夕餉前独特のなんとものんびりとした空気がある。
しかし、きっとのんびりとしているのは、僕一人なんだろうなと時生は思う。卓の向こう側で、美依子の手はよどみなく動いていた。卓に広げられたのは、黒い布が何組もある。そして、針に布と同じ色の糸。何を作っているのかと時生が聞くと、家庭科の授業の課題で人形を作っていると教えられた。それも手縫いで。感心せずにはいられなかった。志村家での裁縫ごとは、全て式神の仕事だ。
「やってみる?」
時生が眺めていたからだろう。美依子は、時生に向かって縫いかけていた物を見せた。しかし時生は、それには力いっぱい首を横に振った。自分でも手を出せば、とんでもないことになるとしか思えなかった。
「いえ、いいです。
僕がやると無茶苦茶になりますから。」
「そない難しいことやないのに。」
そう言っても、美依子もそれ以上は勧めることもなく、ただ少し笑ってまた指を動かし始めた。時計を見れば、まだアニメが始まるまで時間がある。時生はお茶をもって、彼女の横に移動した。
覗くと黒い糸が白いラインの上を丁寧になぞっていく。器用な手先は、大袈裟を承知で言えば、まるで魔法のように時生には見えた。料理にしても裁縫にしても、美依子は器用な手をしている。時生は、普段の美依子からは少し意外だ、と思わずにいられない。だがそうと言えば、彼女は拗ねるのだろうことも解っており、口に出すことはなかった。
「何やとおもう?
コレ。」
縫い物を続けながら、美依子が話す。邪魔になるだろうと、時生が声をかけずにいたのを気付かれたのかもしれないが。だが時生は、それはあえて口には出さず、何かと考える。
美依子が縫いっている以外のパーツを手にとる。いまだ縫われて裏地しか見えないが、少しだけ裏返してみても、タオル地の黒い生地。きっと動物なのだろうことは解るが、それより他のヒントはない。大きさは赤ちゃんと同じぐらいの大きさか。それより少し大きいぐらいだろうか。胴体らしい部分を見れば、かなりデフォルメされた動物だろうと考えた。そしておそらく、美依子が今縫っているのは、顔のパーツだ。だが、裏地からだけではわかるはずがない。
「何なんですか?」
「コレ、志村やで。」
思っても見なかった答えに時生は目を丸くした。てっきり動物だと思っていた。いや、それ以前にどう見ても真っ黒な布地で、コレを自分だと言われても時生には複雑だ。色白だというつもりはないが、それにしても、と。アレコレと困る時生を見て、美依子は笑った。悪戯を成功させたときの子供の顔だ。
「ははっ、驚きすぎやて。
志村むっちゃおもろい!!!」
「ミーコさん!!」
ケタケタと笑う美依子に、時生は憮然とした表情を返す。からかわれたのだと思うと、少しばかり顔も赤い。驚くなと言うほうが可笑しいのに。ひとしきり笑った美依子は、糸を切り、待ち針を外していく。そして、布地をクルリとひっくり返すと現われたのは、やはりどう見ても動物の顔だった。小さな顔に頭辺りにある尖った耳が小さく見えた。まだ表情はない。それでもなんとなく察しがついた。
「可愛いやろ。
黒猫。」
そう、猫の顔。布は、そのまま卓の上に置かれて、時生のほうを見ていた。美依子は、また別のパーツを手にとって、縫い始める。
「これ、完成したら、志村にあげるからな。」
「僕に・・・ですか?」
「うん。」
驚く時生に、彼女は小さく頷いた。そして手を動かす。時生宛だというぬいぐるみは、着々と出来上がっていく。美依子が、猫が好きだということは、時生は以前に聞いたことがある。だから猫のぬいぐるみなんだろうと思った。第一に、ぬいぐるみなんて、時生も子供の頃にもっていた記憶はあるが。普通、男が持つようなものでもないだろうに。どうして。
「あの・・・・。」
「貰ってくれる?」
「えぇ、それはもちろんですが。
あの、なんで。」
聞くと、美依子は少し戸惑ったように、息を止め、そして手が止まった。膝に手を置いて、時生の顔をまっすぐに見据える。少し眉間に皺を寄せて伺うように。
時生は正直、彼女のこの視線が苦手だった。カトブレパスを知って、それでもこれほどまっすぐに見据えてくるなんて人に、今まで会ったことがないからだ。そしてそんな時の彼女は、大抵時生が思いも寄らないことを口にする。
「志村さ、逃げたりせんよな。」
「はぁ?」
「ほら、妖魔と会ったとき。
まぁこの間の商店街の時は、細美が居ったから闘うことなかったけど。」
何のことかと思えば、今までの闘いを言っているのだと時生も解った。
確かに敵を前に逃げたことはない。当然だ。逃げるはずもない。もとよりそんな選択肢は、時生には無かった。あるのはただ闘って、勝つことだけ。それ以外にない。逃げたところで何の解決になるわけもないし、何より妖魔に立ち向かえるのは、自分達だけだという自負もあった。
「当たり前ですよ。
僕は、一応それが使命というか、仕事ですから。」
守護家志村の名を持つ者として、そしてカトブレパスを所有する者として、逃げるなんて選択は生まれたときからない。あるのは勝つことだけ。本家の者が叶わぬ妖魔を、誰が討つことが出来るか。それを思えば、逃げるなどと言う選択肢はない。
やはり一般人である美依子には、そこまでを理解はできて居ないのかもしれない、と時生は少し残念に思った。無理もないことだけれど。しかし、妖魔を見て、倉持家の継承式を見て、本家を慕う者を直に見れば、少しはことの大きさを解るかと期待していたのだ。
だが、次に美依子から出た言葉は、思いも寄らないものだった。
「恐いことない?」
おそらく、美依子は、時生の言うだろう言葉をすでに解っている。そういう響きだった。そして、それが自身とは違うという響きも。
妖魔は人間に害を為すものだ。普通の人間であれば、恐いというだろう。そして美依子が恐がっていることも時生は知っている。だが、それと戦うことを使命としている時生は違う。
「昔は、恐いと思ったことはありましたけど。
今はそんなことないですね。」
さらに言えば、妖魔に討たれた人は数は歴史をさかのぼらずとも、数十はあげられる。その中には当然同族たちも多く含まれる。時生には、恐いという感情より、憎いという感情の方が先立つのが早かった。
「それに恐いなんて言ってられませんから。」
「闘わなぁあかんから?」
「でないと、襲ってきますしね。」
当然のことだった。それが時生にとっての普通だった。
しかし、美依子は、時生の言葉に顔を不満気にしかめた。
「そやから・・・・志村、あかんねん。」
美依子にしては珍しい、小さな声だった。少し目を伏せ、卓に置かれていた湯飲みを手にして、口をつける。小さく息を吐いて、悲しげな顔を見せる。
時生には初めて見る美依子の表情だった。短い間でも、彼女が明るく笑う姿や困った表情、慌てる姿などは幾らも見てきた。でも今の表情はどれとも違う。不安に似ている。だが、それと同時に寂しさがあり、時生は戸惑った。
だが時生より先に、美依子が重たそうな口を開く。
「志村、うちは恐かったら逃げるよ。
危なくても、逃げるし、そら危なそうが人がおったら助けなって思うけど。
でも、うちは逃げるんよ。」
「それはミーコさんが、普通の。
対抗する術もないから・・・。」
「違うて。
そんなんだけとちゃうやって。」
頭振って、否定する美依子の口調は強く、時生は思わず否定しきる前に言葉を切った。まるで怒ったような声に、驚く。腕をつかまれて、強く引かれる。自然と視線が微かに近くなった。
「志村!!」
思わず反射で顔を背けた時生に、美依子は直ぐに両手で時生の両頬を取って、自分の方へ向けさせた。いつもと同じように、美依子は嗜める。美依子の横にあった裁縫箱が、がしゃりと音を立ててうつ伏せになったのが、やけに響いた。
視線が合わないことを嫌がる美依子に、仕方なく時生は顔を俯かせてチラリと美依子の表情を伺った。それは他人が見れば、母親に悪い隠し事を咎められた子供と同じように見えただろう。
一瞬の攻防がやんで、辺りはシンと静まり返っている。遠くで式神たちの声が微かにする程度で、こちらまでは届かない。障子が真っ赤に暮れる夕日に染まり、全ての時間が止まったようだった。
「志村が恐くないっていうから、うちは恐いんよ。」
いつもより小さな声で、美依子が言った。それは静かに時生の胸に沈んで、ゆっくりと染み出していく。
「もし、志村が恐かったら逃げるような奴やったら、うちそんな恐いって思わん。
志村が強いことも知ってるし、強いけどちゃんと危なかったら逃げるやろうなって思うから、心配せえへんよ。
でも、志村逃げへんから。
危なくても、恐くても、逃げへんやろう。
死ぬかも知れへんってときかて・・・・逃げへんのとちゃう?」
そんなことはない。そう言うことができれば、と時生は思う。嘘でもそう言えれば、美依子の気休めにでもなるだろう。しかし、逃げるなどと言わないことは、美依子は先刻承知している。だからこその問いかけだった。
「すみません。」
「謝らんでいいよ。
なんとなく解るし。」
微かに笑いながら、美依子はソッと手を離した。少し冷たい空気がふれる。もう夏もあとわずか。時生が美依子と合ったのは、まだ夏も終わりかけの頃で、熱かったことを覚えている。まだ1月もたっていない。
なのに離れていく温度が、少し惜しいと時生は思った。もう少し、触れていたかった。それは声に出すことは出来ないほどの小さな想いで、時生自身が気付くか気付かないかの、瀬戸際に湧いた気持ち。しかし、今まで拒んでいたものを、時生は初めて惜しいと感じた。
「約束とかも、できへんやろう。」
「・・・はい。」
美依子の諦めたような声は、少し寂しげに響いた。今ココで美依子が強請れば、時生は約束しただろう。危ないことはしないということも誓わせることができる。それは美依子も解っていた。
だが同時に、そんなものに意味がないことも解っていた。時生が、目の前に居る敵と美依子との約束を天秤にかけて、どちらを取るか。時生は、志村家を捨てることはない。美依子はすでに感じ取っていた。
何より、美依子もまた、自分との約束をとれと言えるほどの覚悟も、無かった。
「そやから、心配してるって、忘れんといて欲しいんよ。
それだけなんか形にしたいなぁって思ったから。」
「ミーコさん。」
「飼い猫にしたいとか、そういうことやないから。
ただ、忘れたりせんといて欲しいなぁって・・・・。」
理解できていないなんて、どうして思ったのか。時生は自分の思い違いが、恥ずかしくなった。解っていたのだ。ちゃんと。時生のことも、家のことも、妖魔のことも。なにより、危険なのだということも。
だからこそ怯える。まだ美依子自身が、立ち向かうだけの覚悟がないこと。そして時生が逃げないことも知っていているから。だからこそ案じている。時生が行過ぎて、戻らないのではないか。いや、ただ忘れないで欲しい。その一念で。
それは、とても単純で、簡単で幼けない。そして、純粋な気持ち。
「志村、貰ってくれる?」
2度目のそれは、頼りない声だった。時生は、何を言えばいいのか、咄嗟に返答が思い浮かばなかった。断るつもりはないが、だが謝るのも違う。大きな何かが胸に詰り、言葉が出ない。そしてただ焦ったように、首を数回縦に振った。
「良かった。」
それだけで、美依子は安心したように笑うと、何事もなかったように、ひっくり返ってしまった裁縫箱を片付け始めた。それをぼんやりと眺めている時生に、時計を見た美依子は慌てだした。
「あっ!!志村テレビテレビ!!!
アニメ始まってるで!!!」
「へっ?あっ本当だ。」
「ほら、リモコン!!
チャンネル変えな。」
リモコンは、時生が元座っていた場所で、仕方なしに時生は元いた場所に戻る。チャンネルが変ると、どうやらまだオープニング後のCMだった。とりあえず座るものの、時生が美依子をチラリと見るとすでに、美依子は縫い物を続けていた。しかしずっと見ているわけにもいかず、仕方なくテレビを見る。毎週楽しみにしていたアニメは、驚くほど内容が頭に入らず、録画をしていてよかったと安堵した。そして時生があの時、自分が何を言いたかったのかを知ったのは、美依子が帰ってしばらく後のこと。
(あぁ”ありがとう”って言えばよかったんだ。)
まだ目を開けることが出来ない。傷を負った左目はまだ塞がるのに、時間がかかる。何より、四凶の持っていた鎌自体に呪いがかかっていたらしく、時生の目は未だにジクジクと痛みが収まらない。だがそれよりも先に、時生は気が急いていた。
その目の前で、みちるが携帯で話をしていた。電話先の一燈の声が、時生にも漏れ聞こえていた。
「時生君、美依子さんかすり傷程度で無事だって。」
その言葉に胸を押しつぶしていたものが、ゆっくりとほぐれていった。隣にいたハクタクの喜ぶ声に、時生は頷く。換わってもらえるかと聞くと、みちるは小さく頷いて、一燈と二言三言話すと、携帯を渡した。
「あっ志村!?
怪我したって、大丈夫か!!」
思っていたよりもずっと元気そうな声に、心底良かったと時生は思った。そうすると、安心したからだろう。急に左目の痛みが増したような気がした。だが、それを表に出すことはない。
「えぇ。
命に別状はありませんし、ちゃんと治療も受けていますから。」
「そっか、良かった。
ほんまに良かった。」
声は少し涙ぐんでいるように、時生には聞こえた。
そして気付く。自分の中の変化が、今はっきりと感じられる。
自分の知らないところで、誰かを失うこと、傷つくのではないかという不安。それは、自分が傷つくことを恐れるのとは違うけれど、それもやはり恐怖に違いなかった。美依子があの時に言った、もう一つそれを、時生ははっきりと知った。そして。
「ミーコさんも、無事でよかった。」
「志村?」
時生は、その言葉を、かみ締めて声に出した。携帯の向こうで、美依子のいぶかしむような顔が目に浮かんで、ただそれさえも嬉しく思えた。
嬉しかった。それに理由はない。名前も無かった。だが、それでも時生の胸には、確かに恐怖とそしてもう一つ。それは、美依子があの日に抱えていたものと同じものなのではないか。そう思うと、時生には、あの日珍しく小さな声で話した彼女の気持ちが、今ならわかる気がした。
理由は無かった。
名さえ無かった。
それでも、美依子がただの顔見知りでも、お隣でもない。
そんな名では収まらない。
美依子の笑顔を望む気持ちがあった。
END

PR