6 幸せとは気付くものですか それとも築くものですかまるで、当たり前のように問われて、どう答えようかと迷った。沈黙を隠すように、庭の池の鯉がパシャリと音を立てて跳ねた。一瞬の迷いは、彼女が気にするのでは、という躊躇いだった。でも嘘を言ってもどうしようもないと思って、僕はそのまま答えるしかなかった。
「もう、無いんです。」
「へっ?」
「だから、アルバムが、もう無いんですよ。
一つも。
時人兄さんの一件があってから、僕が自分で焼いたんです。」
そう言えば、ミーコさんも全てを察してくれたらしくて、言葉を噤んだ。大まかなことは彼女も知っているからだろう。まずいことを聞いたという顔をしている。正直な人だ。それをそ知らぬふりをして、僕は先を歩く。彼女が気遣うことではない。
僕にとっては、あの一件は、そういうものだった。このことが、人に知られるのが嫌だとか、そういう風に思ったことは無い。過去は変らない。でも彼女が気にすることではないから、隠したりもしないけれど、腫れ物のように触れられるのも困る。
それがわかってもらいたくて、その頭をポンポンと撫でる。
「気にしないでください。
僕にとっては、けじめみたいなものですから。」
「けじめ?」
「えぇ。
今は、ここも式神が多いですが、昔はそうでもなかったんです。
使用人とか血縁の者も一緒に住んでましたし、従兄弟とか遠い親戚とか。
それこそ大家族みたいにね。
でも、あの一件でみんな居なくなった。」
我が家の庭は広い。歩くだけでもちょっとした散歩になる。表の玄関から裏庭に抜けて、幾つもの建物が渡り廊下で繋がる寺院だ。それでも昔は少し手狭だなと思ったこともあった。その棟のそれぞれに家族や使用人らが分かれて暮らしていた。門弟もいた。家族同然だった。それがあの一件でみんないなくなった。その喪失を埋めるように、今は式神と徳田とハクタクとで暮らしている。
「もう皆いなくなったんです。
変えようがないし、戻っては来れない。
例え兄さんを討っても、それは変らない。
父さんも母さんも一族の皆も。
そしてあの頃の兄さんも、けして戻っては来ないんですから。
だから焼いたんです。
それを見て、懐かしんだりはしないように。」
かさかさと足元の草が揺れた。池の石組の上に立つと、昔の面影が頭によぎる。
ここで遊んで足を滑らせて、兄さんに笑われた。あの木には従姉妹が木登りを練習していた。境内の広場には、門弟が修練をして活気のある声を上げて、父さんの怒声が鳴り響いていた。母さんが台所で食事の支度をしていた。その全てが戻っては来ない。
振り返ると、ミーコさんが苦しげな顔をしていた。そんな顔をさせたくはなかったけれど。こればかりは仕方がない。でも見ていられなくて顔を背けた。もう戻らない。変らないのだから。
「だから、すみません。
昔の僕は見せてあげられないんです。」
本当のことを言えば、アルバムを焼いても記憶は消えない。でもあの頃を、あの頃の兄さんを思い出そうとすればするほど、覚悟が迷いそうだった。それほどに幼かった。だから焼き捨てた。それでいいと思った。
それでも時々思い出す。焼いた火の色。焦げた匂い。黒くしわくちゃになっていく思い出。徳田の悲しそうな目。ハクタクの寂しそうな声。もう誰もあんな顔をさせたくない。誰も壊させない。これ以上。そのために焼いた。でもこんなことを話して、ミーコさんにも悲しい思いをさせてしまっただろう。
だが、そう思ってミーコさんを見ると、その目は何かの決意に燃えているような色をしていた。キッと僕を見据えている。
「ちょっとそこ立っててや。
じっとしてるんやで。」
「えっ、はい。」
突然のミーコさんの命令に、僕は、石組の上で直立不動。何をするのかと見ていると、ミーコさんは、制服のポケットから、携帯を取り出して、こちらに構える。
「あの・・・。」
「じっとしてる。」
「はい。」
そして、鯉の跳ねる音に似た機械音が響いて、彼女が何をしたのかを察する。傍に寄ってくる彼女の携帯には、思ったとおり。硬い表情をした僕がいた。それにしても綺麗に撮れているものだなぁと関心する。こういう機械物にはとくに疎いから。
でも、どうして今?
「ないんやったら、うちが作ったるか。」
「ミーコさん?」
「作ったるよ、アルバム。
昔のがないのは惜しいけど、しゃあないし。
これを、貼る第一号の写真にするで。
それから細見とかハクタクさんとか、みちるさんとも、うちが撮ったるよ。
月見とか花火とか、いっぱい楽しいこともしたらええやん。」
頬に触れてくる手の暖かさ。心臓がドクリと音を立てる。
彼女が今、案じてくれているのは、僕のことだけ。志村の家や守護家としてのことなんて、きっと何も考えてはいない。でも、それが無性に嬉しかった。
さっきとは逆に、今度はミーコさんが僕の頭をポンポンと撫でてくれた。小さな子供を褒めて許すように。
「いいんやで、志村。
失くして壊れたら、新しいのを作っていいんや。」
思わず抱きしめた。何も考えずに手が伸びて、強く抱きしめる。何も考えられない。ずっと離したくない。加減も何も効かない。子供が泣くみたいに、縋るように、ただ抱きしめる。言うべき言葉なら幾らでもあるはずなのに、言葉が出ない。言葉にならない。
それでもミーコさんは、全てを察してくれたように、僕の背中をゆっくりと撫でてくれた。
「頑張ったんやな。
えらいな、志村は。」
咽喉の奥が燃えるように熱い。息が苦しい。その奥に詰っている、言葉と涙が。
もしかすると焼き捨てたのは、写真でも思い出ではなく、あの頃の自分だったのかもしれない。大事な家族を守ることが出来なかった幼い自分。何を疑うこともなく、兄を慕っていた頃の自分。兄の堕ちていくのを止められなかった自分。そして、そんな兄でさえ、いなくなったことを惜しむ自分。
でも、ミーコさんが新しく、作ってくれる。思い出と写真。そして新しい居場所を。
闘える。そのためなら。例え妖魔でも、慕った兄であっても。闘って、そして帰ってくることができる。ここに。彼女のいる場所に帰ってくる。
「ありがとうござます。」
「どういたしまして。」
闘おう。守るために。新しい思い出をずっと、もっと、作っていきたいから。この人とならばそれが出来る。腕の中の小さな人と。
END

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