1 本当に大切なものは何ですか僕が、立ち上がろうとするより、彼女が駆け出す方が早かった。障子に手をかけて、伏せた顔に、こちらが戸惑う。ミーコさんと名を呼ぶと、頭振ってこちらを睨んだ。その表情には、僕の方が何もいえなくなった。ぎゅっと結ばれた唇が痛そうで、それだけで彼女の必死さが伝わってくる。
なのに紅い涙は、止まることは無い。
「ミーコ殿?
いかがなされた?」
「いやや。
開けたらへん。」
障子の外で、ハクタクが、珍しくオロオロとした声でミーコさんを呼ぶ。それでもダメだとばかり続ける。何故か僕は、それをぼんやりと眺めていた。咎める言葉も出てこない。
紅い涙が止まらなかった。近くに妖魔がいる。間違いない。撃たなければ、このK都の人間に害が及ぶ。それを止めるが使命。だから行かないと。なのに、彼女が通せんぼをして、行かせまいと駄々を捏ねる。彼女以外に、こんなことをされたら、僕はどうしただろうとふと考えた。いや、彼女を深く知る前ならどうしただろう。構うことなく邪魔だと言って、この部屋を出て行くに違いない。どうでもいい、そんな物と同じように突き飛ばすぐらいは、していたかもしれない。嫌われることなんて、きっと構うことなく。あの頃なら。
「行ったらあかん。
行ったら、志村無茶ばっかりして、怪我して帰ってくるし。
そんなん・・・見たあらへん。」
「ミーコさん。」
「いやや。
絶対行かしたらへん。」
近づくとミーコさんが、怯えたように悲しげな声で、言い募る。批難に似ているそれは、今まで触れたどんなものよりも暖かかった。絶対という言葉が強く言い切られて、ミーコさんの気持ちの強さがよく解る。それが嬉しいと思ってしまうのは、不謹慎かもしれない。
昔に無くした暖かい気持ちが、今、胸の内でゆっくりと湧き上がっていく。無条件に誰かに大事にされる。志村家当主ではなく、ただの志村時生を大事に思ってくれる彼女の気持ちが嬉しくて、僕にとって、彼女がどれほどかけがえないものか。改めて胸の内で繰り返す。だからこそ、彼女の駄々一つきいてあげることが出来ない。胸苦しいのは、申し訳なさか。それともそんな彼女が愛おしくてか。
彼女を腕の中に囲う。強張っていた肩の力がゆっくりと抜けていくのが解った。いつも溌剌としたミーコさんだから、余り意識したことが無かったけれど。薄い肩をしていた。それを心に強く強く残す。
「ごめんなさい。
僕は、行きます。」
「あかん。
怪我するし、うち志村が怪我するのいやや。」
胸元で、彼女が髪が揺れる。それに手で触れて撫でる。何度も何度も手に覚えさせる。忘れない。
強くありたいと思う。そのために。大事なのは、何の為に。
「ミーコさん。
初めてあった日のことを覚えていますか。」
「忘れたことあらへんよ。」
「ありがとうございます。」
「お礼言われることちゃうやん。」
言うべきことなのだと、伝えるべきだろうかと少し迷った。自分があの日のことをどれほど大事に想っているのか。とても感謝しているのだということを、彼女は知らない。今も誰かが襲われているかもしれないというのに、そんなことを考えて、暢気だといわれるかもしれない。一燈さんに知られれば、きっと烈火のごとく怒られるに違いない。でも、忘れてはいけない。いつだって。僕は、今、何が大事なのか。
「僕は、この手で倒さなくてはならない奴がいると言いました。
あの頃の僕は、兄を倒すために、妖魔退治をしていました。
知ってますよね。」
「うん。」
「アレは嘘ではありません。
そのつもりでしたし、今もその気持ちは有ります。
でも、今は違います。」
「よう、わからへんねんけど。」
きょとりとした目で見上げてくる。幼けなくて、無防備な人。大事な人。とてもとても大事な人。守らせて欲しい。僕に。
「今は、守りたいから。
このK都の人をただ守りたくて。」
「志村?」
知らずと腕に力が篭る。守りたくなる。そんなものがある。あの頃、失くして、もう二度と手に入らないと諦めていたものを僕は手にした。
僕の身を案じてくれる人が。僕のために泣いてくれる人が。
共に笑ってくれる人が。この身の醜ささえ許してくれる人が。
ただ、お帰りと迎えてくれる愛しい人が、いまここにいる。
守りたい。そう思うことに訳なんていらないはずです。
「貴方が大事で、大切で掛け替えの無いものなんです。
だから、守りたいんです。
そんな簡単なことを、僕はもうずっと忘れていた。
貴方に会うまで、触れようともしなかった。」
あの日、出会っていなければ。あの日、ミーコさんが僕の家まで着いてこなければ。
逃げようとばかりする僕の手を、掴んでくれていた。もう二度と手に入らないものだと、諦めて忘れていたのに。
「でも、もう思い出したから。
きっと、ここに住まう人にも、そんな人がいて、傷つけば誰かが悲しむ。
もうあんな想いしたくない。
誰にもさせたくは無いんです。」
ポトリと彼女の頬に、紅い滴が落ちた。それを指で拭ったけれど、拭いきれなかったものが残ってしまった。汚してしまうかもしれない。傷付けてしまうかもしれない。それを悔いるかもしれない。嫌われることも厭わずに、突き放すことが優しさになるかもしれないのに。でも、どうして手放すことができるだろう。
ゆっくりと障子から彼女の手を放す。力の抜けた手は抵抗もせずに、僕にされるがまま戒めを外した。外にいるはずのハクタクは、静かに待っている。早く行かないといけない。解っている。それでももう一度だけ、ミーコさんを強く抱きしめた。小さな肩、細い髪、僕の服を握りこんでくる小さな指先。全てを心に刻む。忘れない。何の為に、僕は闘うのか。
兄を討つ為に。
志村家当主の使命を果たす為に。
妖魔に苦しむ人を助ける為に。
何より、僕の大事な人を守る為に。
腕を放して、障子を開けると、ハクタクが寄ってくる。ここにいるように命ずると、全てを解したようで、微かに頭を下げくれた。障子からミーコさんがこちらに振り返った。視線が合う。零れそうな涙をぐっと堪えている。
「行ってらっしゃい。」
「はい。
行ってきます。」
その言葉が聴けてほっとした。もうそれだけで、僕は駆け出した。何の為に闘うのか。
それは、今胸の内にある暖かさを失くさない為に。
END

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