夏が始まった。七月の上旬。例年に比べれば、一週間は早い梅雨明けだと、銀時贔屓のお天気女子アナが言っていた。一斉に鳴き始めた熊蝉の大合唱に、銀時はうんざりとした。顔を帽子で扇ぐと、温い風が顔を撫で、かき分けた髪を揺らす。汗で眼鏡がずれる。
梅雨の間は早く夏になれと思っていたが、夏になれば早く秋になれと思う。そのくせ年はとりたくないと思うのだから、人は身勝手なものだ。
「あつぃい」
死んだ魚のようだと言われる目が、更に瞼で半分ほど覆う。早く歩けばそれだけ早く目的地に着くだろう。しかし銀時の足取りは重い。どこか亀の歩みを思わせた。
銀時を出迎えたのは大きな門前。銀時は今、家賃三万という破格以外セールスポイントのない雑居ビルで、二人暮らしだ。それに比べれば、充分豪邸と言える。
だが見慣れた家をぼんやり眺めるほど、銀時も暇ではない。志村と書かれた表札の下にある、インターホンを押した。
ピンポーンと間延びした音に、すぐに出ろとありったけの念を込める。しかし家の中は、静かなものだった。不在ということはまず無い。確かに約束の午後三時には、二十分ほど遅れた。しかしそれぐらいで約束を反故にして、出かけるような相手ではない。
「寝てるのか? あんにゃろうぉ」
銀時は勝手に寝ていると決めつけて、インターホンを連打する。すると屋敷の奥から、ガタガタっという音がした。
「は~い!!」
「遅い!! 早く開けてくれ!!」
「坂田さん!! すみません。すぐに」
派手な音を立てて、声が途切れた。走る足音が続く。あまりの暑さで、返答よりも先に苦情が漏れた。だがシャツを焼くような真夏の日差しは、銀時に人を殺せると思わせるほどだ。必死にもなる。
「すみません!! お待たせして……」
くぐり戸の方が開くと、中から声の主が顔を出した。思わず銀時は、苛立ちに声を荒げた。
「ちょっと新八、お前マジおせぇよ!?」
「すみません。ちょっと手間取っちゃって。どうぞ」
銀時に怒鳴られて身を縮こまらせながらも、新八はすぐに銀時を招き入れる。中に入ると、敷石で舗装された道が屋敷の玄関へと続き、母屋の向かって右手には、新八の父が運営していたという道場が見えた。
「毎回見て思うけど、お前その格好暑くねぇ? っていうか、見てるこっちが暑苦しい」
「家に居ることが多いですし、慣れてますから。もちろん暑くないわけじゃないんですが」
「ふ~ん」
銀時の乱雑な口調が際立つほど、新八は丁寧で落ち着いた声で話す。銀時は、その全てに『お育ちがおよろしいことで』と心の内で皮肉を返した。
口調だけではない。銀時を先導する青年。志村新八は、全てにおいて銀時と真逆だった。銀色で外跳ねのきつい天然パーマ。アイボリーの背広を着て、だらしなくワイシャツの襟を開けている銀時。片や新八はまっすぐな黒髪。袴を履いて着物の下にシャツを着込みながらも、きちんと襟元までボタンを留めている。更に新八の年はまだ十八歳と、今年二十八となる銀時とでは、一回り近くも差があった。それだけ違えば、性格や所作ももちろん真逆。銀時と新八の共通点と言えば、二つ。男という性別と、眼鏡を掛けていることぐらいなものだ。ただし銀時の物は、伊達であったが。
そんな正反対の二人だったが、銀時はこの二年もの間、頻繁に新八と連絡を取り、こうして会っている。大切な理由があった。
屋内に入ると、全てに冷房が行き渡っているわけではないが、それでも日差しが無ければ、幾分マシになった。銀時は思わず一息つく。
「先に部屋に行っておいてください。すぐに行きますね」
「おぅ」
新八はそのまま台所へ、銀時は勝手を知った新八の部屋へと向かう。灰色の波模様に桜の絵柄の襖。そこが新八の部屋だ。開くと、エアコンの冷えた空気に迎えられる。
「あぁあああ~生き返るぅうう!!」
思わず銀時が叫ぶ。すぐに入って、足を投げ出して畳の上へと寝そべった。深く呼吸をして、手近にあった団扇で顔を扇ぐ。火照った身体が落ち着いていくのを感じて、銀時は寝返りを打った。そこには、遠慮の欠片もない。鼻を擽る井草の香。それは新八の臭いと似ていた。銀時は軽く視線をくべる。
「相変わらず真面目腐った部屋だなぁ。娯楽性ゼロってか」
新八の部屋は、一人部屋としては心持ち広めだろう。八畳の和室にはベッドもない。大きな文机には、パソコンとプリンターがあるだけだ。この部屋で一番大きな家具といえば、箪笥と本棚だろう。その本棚には本が詰まっているが、これは新八が使っている書物の一部でしかない。この家には書斎が別に設けられている。普通の家では考えられないことだが、新八は現在この大きな屋敷に、一人で暮らしているようなものなのだ。これでも使っていない空きの客間が、あと三つもあるのだから、書斎はある意味有効活用と言える。
「今度また、エロ本持ってきてやっか」
年頃の男ならば、たしなみとも言えるエロ本だが、一見すると新八の部屋には見あたらない。週の一日二日戻ってくる姉に気兼ねしているのかもしれないが、それにしても酷い。まして新八の仕事を考えれば、必要不可欠とも、参考文献とも言える。本来なら自分で吟味して、研究すべきだろうが、新八に言わせると本屋で買うのが恥ずかしいと言う。仕方なく、以前に銀時が無理矢理押しつけた本があるのだが、それも一体どこにしまっているのかと思う。
銀時がごろごろとしていると、ふと落ちていた新聞が目に入った。一面のタイトルには『戌威星特使来訪に伴いテロ厳戒態勢』『元老院にて有害テープ規制法案再提出の見通し』と目に入った。寝そべったまま、銀時は新聞を開く。中は大体銀時も想像していた通りだ。昨今のこの国の情勢が敷き詰められている。
「みんな暇だねぇ」
新聞の字を目でなぞりながら、銀時はそれをあざ笑う。一体この新聞の中にでさえ、どれほどの規制が掛かっているだろうか。何度検閲を繰り返したのか。出版社に勤める銀時は、それを知っていた。
天人が江戸に乗り込んできたのが、おおよそ一世紀前。天人の到来で、それまであった武家社会は崩壊。天人による傀儡政治が行われ、それに反抗していた攘夷志士と呼ばれていた者も、二十年程で自然と消滅していった。時代が流れ、天人のもたらす文明の利器に対して、人々が依存していくのは必然と言える。
地球人が天人を侵略者ではなく、文明をもたらす知識人として見始めたころ、宇宙の情勢が変化し始める。一部の惑星が同盟を組み、外来生物による一方的な支配に対して、輸入や輸出の法的圧力を始めたのだ。もちろん彼らの目的は、人道的配慮ではない。自国の国民に支持を得る為のパフォーマンスだ。しかしその情勢が動かし難いと見た幕府は、地球人に対しての一方的な支配を緩めざるを得なかった。その上で、より多くの利益を生む方法を、模索する。
その結果、ただ地球人を支配するのではない。地球人を肥やし、富を増やすことで、自分たちが得られる利潤を更に増やすことを考えた。
その為にまずこの国の名称を、大江戸帝国へと改めた。それに伴い、幕府時代からの名家や天人には華族として別格の地位を作り、地球人の一部に貴族という特権階級を与えた。貴族と華族。それらが一緒に政府を作り、地球の自治を行うことにした。総称して議員と呼ばれる彼らは、地球人の中で数少ない上流階級となった。しかし数の上では、天人が圧倒的多数なので、天導衆は問題にはならないと判断した。
もちろん、それまで幕府を動かしてきた天導衆は、名を変えて元老院となったが、自分たちで政府への意見を陳情できるようになったということは、地球人に大きな変化をもたらした。
更に軍部を設置し、その一環で剣術が市井で復活を果たす。軍部で功績を残した者には、恩賞や貴族へ参入などが認められた。このことで、多くの若者が市井の道場や私塾の門戸を叩き、貴族への入閣を目指した。その中からは、貴族とならずとも多くの優秀な者が才を伸ばし、市井を賑わせるのも時間が掛からなかった。活力と向上心は、経済を押し上げて生活を豊かにする。
元老院はこれらの措置で、内外に対し地球人による自治を印象付けることに成功した。
鮮やかな幕府の判断だったが、しかしこの変革こそが、大きな社会問題を生み出すことを、当時は誰も予測していなかった。そしてその問題こそが、大きな圧力を生み出す結果となる。
「坂田さん!! なんて格好してるんですか!!」
襖を開けた新八が、寝そべっていた銀時に驚く。それでも銀時は顔を上
げるだけで、身体を起こそうとはしない。
「背広に皺がいきますよ。ほら、ちゃんと座ってください」
「いいよ、別に」
「駄目ですってば。もうほら、飲み物とゼリーも持ってきたんですから」
ゼリーという言葉に、銀時の目が途端にきらめいた。銀時は無類の甘味好きだった。
「ゼリー!!」
「食べたかったら、ちゃんと座ってください」
新八が、まるで銀時に盗られまいとするように、お盆を少し遠ざける。すると先程までが嘘のように、銀時は俊敏な動きであぐらをかいた。新八は苦笑いを零しながらも、銀時の前へ、お盆を置いた。
「ぉおお。それもグラマシのゼリーかよ。ここの美味いけど高いんだよ。っていうか、カルピスもあるじゃねぇか」
「どっちもお中元でもらったんですけど、よければどうぞ」
「お中元だろうが、お歳暮だろうが、香典返しだろうが、口に入ればみんなゼリーなんだよ。知ってるか? 新八」
「香典とか、縁起悪いこと言わないでください」
「はいはい。じゃあとにかくとっとと、いただきます」
「どうぞ」
新八がどうぞと言う前に、銀時の手にしたスプーンでゼリーを掬っていた。中には夏らしく桃の果肉が閉じ込められている。それを目の前にもってくると、震える様を楽しむ。ゼリーに封じられていても、果肉の甘い香りがしっかりと分かる。目で楽しみ、鼻で楽しみ、最後に口に含んで舌で楽しむ。それが銀時流の甘味の楽しみ方だった。
「ぅううぅうううんん!! たまんねぇええ!!」
「喜んでいただけて良かったですよ」
予想以上の反応だったのか。新八は少々呆れながら言う。しかしめったに味わえない高級品に、評判通りの味の前では、新八の呆れなど銀時にはどうでもよかった。
「それじゃ、僕続きしますんで」
「続きは良いけど……」
そう言ってスプーンを口で咥えながら、銀時が手を誘うようにひらひらと揺らめかせる。視界の端で揺れる手を捉えて、新八は唾液を飲み込んだ。
「わかってて焦らすなんて、新先生も心得てきたねぇ」
「馬鹿言わないでください。あと先生って止めてくださいって言ってるのに」
不承不承という空気を滲ませている新八に、銀時はもしかしてという予想を立てた。いくらもらい物とは言えど、デザートに甘い飲み物。普段から、糖尿寸前なことを説教する新八とは思えない。
そして思ったとおり、受け取った原稿用紙は、当初想像していたよりも軽いものだった。しかし今は、まだ何も言わない。桃と同じ。熟すときを待つ。銀時としては、どうせ味わうなら丸ごと全部、余すことなく味わいたい。期待にぺろりと舌で唇を潤した。
「どうもどうも。それじゃ続きをどうぞ。出来るだけエロいのを頼むぜ、新先生」
新八は息を詰まらせ、拗ねたような顔を見せる。それでも言い返す言葉が見つからないのか。パソコンへと向かい始めた。いつもより、ゆっくりとしたタッチ音を聴きながら、銀時もカルピスに口をつける。そして新八から手渡された原稿を読み始めた。
「ご希望とあれば、いつでも手伝いますよ、先生」
背を向ける新八に声をかける。一瞬止まった指に、馬鹿正直だなという感想だけを思い、銀時は手渡された原稿に目を通し始めた。
新八と銀時が頻繁に会っている理由。それは作家と、その編集担当と言う関係にあった。しかも新八は、ただの作家ではない。この大江戸帝国においては、数少ない官.能小.説家。作家名を寺門新と言う。

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