さて、SとMと言う行為が何故許容のなせる業かと言うと、SをMが許すという行為がなくては、継続できない行為だからではないかと思うからです。
Mだって本気でいやなら、拒否する方法は無いわけではないと思う。
まぁMもMでタイプがあるとは思うんですが。
ネウヤコで言うと反抗Mと従順Mというか。
私が書くと、比較的後者になることが多いんですけど。
どうしても弥子がネウロを許してしまうからかもしれません。
ただどちらにしてもやはり許容は必要だと想います。
ネウヤコで言うと、ネウロを弥子が許すからこそ、継続ができるというか。
Mが許さない限り次がないし、Sはそれをどこまで許されているのかを見極める必要があるわけで。
つまりSも譲歩しているのではないかと。
ネウロにとって弥子は代替があるとは言えど、必要な道具な訳で、そう簡単に失くしていい道具ではないはずです。
それにも関わらず行為を行うというのは、やはり弥子に許されている自信のようなものを持っているからでは無いかなぁと想います。
そういうことを考えると、けしてSとMの関係と言うのは、Sだけが優位と言うわけではなくて、精神的にはMが優位なのではないかと思うわけです。
SもMがいなくてはぶっちゃけることが出来ないわけで。
弥子誘拐の時に、弥子が居ないと歯がゆさを感じていたネウロがいたけれど、あんな感じかな?
だから結構弥子の方が立場的には優位ではないかなぁと。
食事はネウロには死活問題で、それの一端を担っている弥子であって。
弥子にとってはネウロがいなくても問題は無いけれど、ネウロは弥子が居ないとどの程度かは不明ですが、不便をするわけで。
そこを含めても、表面的にはネウロが優位なのは、弥子ちゃんがそれを許しているからこそ存在しているのではないかなぁと思うわけです。
弥子ちゃんがそこまで計算をしているかと言うのは謎だな。
しかし許されているというのは、相手が上位であることを認めているようなもので、それをネウロが受け入れているのは自覚がないのか。
もし自覚があるとすれば、やはりネウロがMの要素を持ち合わせているからではないかと思うのです。
許されていることに他者(ネウロと弥子以外の人間)への優越感とともに、弥子を上位と認めることに劣等感にも似たものがあり、ジレンマがあるような気がする。
でもそのジレンマさえも、ネウロがM的素養を持ち合わせているなら、楽しんでしまうのではないでしょうか?
もしかしてそこまで計算しているのか?
ロジックな思考を持ち合わせているからこそ、そういうジレンマをあえて抱えることで、自身のブレを認識して、M的要素を充足させ、実際に弥子を甚振ることで、S的素養を満足させているとか。
一方弥子は、そこまで見極めているとは思えないんですよね。
う~ん、弥子ちゃんって自分のことには鈍そうに見えるし、そういうのは無自覚にやっているっぽいんです。
だから最後の最後はネウロは自分を手にかけないのを、どこかで解っているけれど、理由までは考えようともしていないような。
もし理解していたとしても、もっと正常な言葉にして理解をしていそうな気がします。
だからネウロの弥子が自覚しているとは思ってないような。
無自覚の弥子にネウロは自覚して従っているとかだったら、萌えるなぁと想います。
やっぱりココには”力の弱いMに従うS”という図が出来上がるわけで。
好きなんだな、私この図が。
とまぁツラツラとこんなことを考えているわけです。

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