ひたひたと足音が聞こえてくる。次第に大きくなったそれが、ピタリと止まる。一緒に私の鼓動も止まってしまいそうだった。馬鹿みたいに緊張している。人影がゆっくりと障子あけた。彼の向こうにあるのは、外灯の明り。そして天から降り注ぐ、中秋の名月が、その表情を隠す。
「お待たせしました。」
志村も緊張している。だって声が少し変だ。何か違うのがわかって、こっちの緊張が少し緩んだ。
後ろ手で締められた障子に、また部屋は、真っ暗になる。ゆっくりと近づいてくる影を見上げる。一歩一歩がとても大きく思う。そして、私の傍らで膝を立たせて、しゃがみ込んだ。
間近で見ると、やっぱり志村は綺麗な顔をしていると思う。男性的という印象が少し薄いぐらいで、柔らかな印象が強い。でも肩幅や指先が硬いから、余計にその差に私が戸惑っていることを、志村は知らない。教えたくないな、悔しいから。私だけの秘密にする。
「湯加減、熱くなかったですか?」
「うぅん・・・ちょっと熱かったな。」
「すみません。
ぬるめて下さってもよかったですよ。」
「ええよ。
・・・そのうち、慣れるから。」
少しだけ驚いた顔に、してやたりという気がした。こういう空気の中じゃ、いつもみたいな啖呵も出てこなくて、少し困ることが多い。触れてくる手に擦り寄った。大きな手は少し荒れていることを私は知っている。その手にドキドキさせられることも、悔しいほど知ってる。
柔らかい、ぬるま湯のような空気が、肌に触れる。部屋に広がる。覗き込んでくる視線にあるのは、ただ穏やかさだけだ。でもその中には、いつだって揺ぎ無い意思がある。自分の大切なものが、何なのかを知っている人だ。傷ついても、苦しくても、大切なことを手放さない。そのための選択が出来る人なのだと知っている。
だから心が落ち着く。恐くない。だって、その大切なものの中に、私を入れてくれたらしいから。それを知ったときは驚いた。けど、きっと私はその幸運に、全てを懸けたんだろう。何も惜しくは無い。
「浴衣、ちゃんと着れましたか?」
「着れへんよ。
佐保姫さんが着せてくれた。」
「そうですか。
よく、似合ってます。」
志村は嘘はつかない。だから凄く恥ずかしくて、嬉しい。嬉しそうに笑われると、さっきの意趣返しなのか、それとも本音なのか判別できない。でもきっと自分が嘘が下手なことを知っているから、志村に嘘はない。それだけでいいと思う。
薄紫に散った真白の花は、少し型が古かった。新品の浴衣ではないのが、一目でわかった。誰のかと聞くと、志村のお母さんの物だと教えられた。用意がなくて、と謝る佐保姫さんだったけれど、気はならなかった。むしろ嬉しかった。
大切に着られていたのが解ったし、大切にしまわれていたのも解ったから。それに、何よりこれが彼と彼の周りを作る、この家に住まう者たちの気持ちなのだろうと思えた。嬉しい。山吹色の三尺帯を締められて、気が引き締まった。あやふやだった覚悟が、初めてできたのはあの時かもしれない。
頭を撫でられて、柔らかな口付け。唇を甘噛みされているようで、くすぐったい。声が漏れた。頬に触れて熱を感じる。いつもと同じで、変らない触れ方。でも、もうそれは終り。いつまでも変らないとか、同じではいられない。気持ちは深まっていく。どんどん貪欲になって。
くしゃくしゃとした志村の髪に触れる。少し濡れていた。
「もっと・・・。」
壊れた器。
こぼれたのは、ぬるま湯のような愛しさ。
いつだって、私は驚くほど単純にできている。
「ミーコさん。」
その目が、一瞬だけすっと眇められて、口角が笑みを作る。それは、いつだって優しい志村が隠していたもの。私だけに隠して、私にだけ向けられた表情。気付いていたけれど、知らぬふりをしていた。
知ることに怯え、怯えることを許されていた。知ってしまえば、戻ることは出来ないから。
もう戻れない。戻りたくもない。欲深いこの気持ちさえ、今はもう。
だって胸が痛いほど、期待で高鳴っている。
「一つ、何かして欲しいことありませんか。」
「して欲しいこと?」
「えぇ、何でもいいです。
朝ごはんのメニューでも、欲しい物でも。
僕に出来ることなら、何でも。」
「そないなこと、急に言われても・・・・。」
「何でも良いです。
明日の朝にして欲しいこと。」
腕を取られた。首筋に唇が触れて、悲鳴を上げてしまう。強張った身体が、逃げそうになるのを、引き寄せられる。離れられない。乱された襟首からゆっくりと胸元に降りてくる。そこをきつく吸われる。ダメだ。解らない。思いつかない。
「そのかわり、逃がさない。
朝までずっと。
ずっと、傍に居てもらいます。」
さっきより苦しいぐらいの口付け。混ざり合う唾液。握られて手首が強くて、少し痛いぐらい。そんな必死に掴むことないのに。まだ恐い?解らない?馬鹿。そんなご褒美なんて無くったって、逃げたりしない。逃げたくないから。
唇が離れて、その目を見る。その目に映る私は、ちゃんとあんたを見てるから。
「なら、志村が着せて。」
きっとあんたが知っているより。もしかしたら私が自分で気付いているよりも。好きなんだ。そのくしゃくしゃの髪も。荒れた大きな手も。優しい声も、いつだって受け入れてくれる広さも、全部。言葉にならないところまで全部が。
「あんたが、脱がせるんやろう。
うち着れへんねんから。
朝・・・着せてよ。」
見開いた目が、頬と一緒に緩んだ。その隙に抱きついた。熱くなった顔を見られたくなくて。きっともう真っ赤だ。なのに、こういうときばかり志村は意地悪で、ソッと体を離して、顔を覗きこむ。嬉しそうに笑ってる。馬鹿、スケベだ。首や肩にキスされる。もう全部解っているのだから、ここまで言わせて。焦らしたりしないで。心臓が持たない。背中に腕を回す。
「もう、そやから。
・・・はよ、連れてってよ。」
「はい。」
心得たとばかりに、膝裏に腕を回し、抱えあげられる。背中に添えられた大きな手に、しっかりと抱きしめられている。恐くない。その肩に頬を寄せてる。
この腕の中にある幸せ。腕の中に居られる幸せ。
それはきっと、夢の中に居るよりもずっと、ずっと・・・。
END

PR