神とは、空想の生き物だと思っていた。
子供の頃は、科学者とは、なるべきものという考えだった。
バクは、代々、科学者として、黒の教団員であったチャン家の嫡子と生まれた。
不幸だと思ったことはなかった。
裕福だと思ったことはあった。
だが、幸福だと思うことは少なかった。
バクの曽祖父は、魔術師でもあり、黒の教団創設メンバーの1人でもある。
当然教団の中では、有名でもあり、またその一族の道は、その偉大なる曽祖父の子孫としての名を背負うことになった。
だが、やはりそれさえも、バクは不幸だと思わなかった。
生きる道がそれ以外になかった。
それ以外知らなかった。
学校に行くこともなかったし、友達も居なかった。
世話役のウォンが学問を教え、友好の相手は屋敷の人間か教団の関係者ぐらいなものだった。
家の外に出ることも稀だった。
学問は楽しいと思えたし、何より誰かに褒められることがうれしかった。
バクの世界は狭かったが、それはそれで幸せだった。
あえて不満があるとすれば、世界がとても味気なかったということぐらいで。
どれほど不思議なことがあろうと、全てが知識を学ぶことで謎が解けた。
解らないことは、本を読み、誰かから与えられる知識でことが足りた。
だから、初めて神という言葉を聴いたとき、それは空想だと思った。
あれは、まだバクが10歳を少し過ぎた頃のことだっただろう。
「ウォン、神とは本当にいるのだろうか?」
そのとき、ウォンはあの強面の顔に緊張が走ったのが解った。
ウォンは、感情がそのまま表情に出る正直者であったし、何よりバクに嘘をつくことをためらう忠義者だった。
だが、一寸の迷いの無くウォンはうなずいた。
「もちろん、神は居られますとも。」
「だが、私は見たことがない。
神とはどういうものなのだろう。」
当時のバクは、まだ家の存在意義も、教団というものが何かさえ知らなかった。
ただ、その教団という場に母が居る、と言う感覚ぐらいでしかない。
もう少し知っていれば、バクは問うことさえしなかっただろう。
「バク様、神とは我らが主。
この世界を覆う悲しみから、唯一救ってくださる救いの手でございます。」
「救いの手・・・・。」
「神とは、苦しみや悲しみ。
孤独からも人を救い、生きる道を与える者にございます。」
惑いないウォンの言葉は、バクにはまるで古い歌のように聴こえた。
道照らす光
君捧ぐ再生の名
空腹の波が何度か来た。
今はそれが常時で、空腹なのかさえわからない。
太陽の光はもうずっと見ていないはず。
時計もない。
食料もない。
あるのは、どこからか吹く風の音と、冷えた地底の空気。
とにかく人の気配がしない。
細かな装飾のされた柱や壁。
だが、その反面その脇を荒々しく削られたむき出しの岩が見え隠れしている。
歩いていると、削りだされたままの岩壁から落ちては流れる地下水に出くわしたことが何度かあった。
どこに向かっているのかも解らなければ、どこに向かえばいいのかもわからない。
無数とも思える石畳の階段を下りて痛んだ足。
もう感覚がないので、引きずっても痛くなかった。
歩いているうちに、不意に思い出せた。
やはり、彼女に会ったのは、3年ぶりだ。
自分と同じ金にも見えるようなクリーム色の髪と、象毛色の肌。
白と黒が基調となった教団服を飾る銀製のローズクロス。
それが何度か写真の中で見ただけの、チャン家の当主である母だった。
直接みたことがあるのは、1度だけで、確かアレは父の葬儀の時のことだ。
黒の教団団員の死は家族には告知されないことになっているが、例外はもちろんあり、私の家はそれに当たる。
一族のほとんどが教団員であるのだから、知らないわけにはいかない。
もちろん葬儀といっても形だけで、アクマに殺された父の亡骸は、教団内部で処理されたはずだ。
ただ一つの亡骸も、刻まれた名さえ無い。
教団で用意された殉職者達の慰霊碑のみがある。
それに手を合わせるだけ葬儀で、ウォンに手を引かれていた私は確か母とすれ違った。
そのときは、それが母だとさえ気付かず、後にウォンに教えてもらった記憶が微かにある。
私が9歳の時のことだった。
だからかもしれないが、久しぶりに会った母を見ても、特に感慨があるわけではなかった。
現実味がない。
一瞬、やはりまだ生きていたのだという感想が頭をよぎったぐらいだ。
思い出も記憶も無い母は、もはや私にとっては当主であるという意識のほうがよほど強い。
(家族と言うだけなら、ウォンや屋敷の者の方がよほど親しみがある。)
彼女にどういう言葉をかけてよいのか。
いや、言葉をかけてよいのかと言うことさえ、わからなかった。
「今から、お前に試練を与える。」
降りてきた言葉。
それ以外に、説明らしい言葉さえない。
「この建物の中に、お前の曽祖父の遺産がある。
それを見つけて来なさい。
それが出来るまで、この建物から出ることは許さない。」
「遺産とは何ですか?」
「遺産だ。
お前1人で、見つけてくるんだ。」
3年ぶりに見た背中は、もうそれ以上の問いを許さなかった。
それから幾日が過ぎたか覚えていない。
4日目ぐらいまでは、日にちも数えていられたが、今はそれさえ億劫になってきた。
ここは、幾つもの建物がつながった巨大な研究施設らしく、とても地下にある建物とは思えない。
だが、ついこの間まで人のいた痕跡があり、おかげで食料と水のある場所は解ったのは幸いだった。
膨大な数の部屋と階段と廊下で構成されたこの施設が、今の私には檻も同然だったが。
探し始めたころは、いつか誰か助けてくれるだろうかという期待もあったが、今では笑えるほど浅はかな希望だったと想う。
何を探せばいいのかも解らず、部屋という部屋を見てまわる。
地下施設のさらに地下の奥深くへまで来れたが、そこからは、さらに複雑な迷宮だ。
施設のようになっていた上とは違い、地下は部屋らしきものは少ない。
だが広い石畳の床、壁や柱の装飾は、上の施設よりなお美しく、本で見た神殿を思わせた。
ここに曽祖父の遺産があるのかは解らないが、すでに帰り道も解らない。
ドサリと、どこか遠いところで聞いた気がした。
それが自分が倒れこんだ音だと解るのに、数秒掛かった。
霞む視界だったが自分の服が見えて、汚れるなぁとなどと、ぼんやりと考える。
出かけの朝、ウォンが用意してくれたせっかくの白の正装。
自分には、白が一番に似合うといってくれたのに、汚れてしまう。
余裕があったわけではない。
身体がダラリと弛緩して、今度こそゆっくりと瞼を閉じる。
この迷宮に入ってからは、ろくに寝てもいない。
目を空けていられる間は、とにかく動いていた。
だが、もう起き上がる気力などどこにもなく、小指の先一つ満足に動きそうに無い。
瞼さえ開くことが出来ない。
思考がまわりそうになく、緊張がゆっくりとほどけていくのがわかった。
考えたくなくて、それ以外のことを見つけたくて必死だったけれど。
ただ、もうきっと無理なんだろう。
「死ぬ・・・のか。」
それはまるで爛れたような声で、自分のものとは思えなかった。
だが、声が出た。
冷たい床に顔を着けていると、自分の鼓動の動きがよくわかった。
声に出せば、もっとリアルに”死”と言うものが目の前に迫ってくるようだった。
深い暗闇の中で、ぼんやりと自分の周囲の人を思い出す。
ウォンは泣くだろうとか。
屋敷の者はどうするのだろうとか。
だが、もしかすると、世界が狭くてよかったのかもしれない。
それが不幸だと想ったことはなかったが。
おそらく自分が死んだところで、泣く者などごく僅かの人たちだ。
このまま生きていたところで、曽祖父の遺産を見つけることが出来るのかどうかもわからない。
そうなると当主の命令に沿うことの出来ない私など、きっとお払い箱だ。
チャン家の正当な血を継いでいるからといって、親族の中には私に次ぐ者ぐらいはいる。
第一、こんな無理難題を試練といって与えるような母だ。
私を憎く想っていたのかもしれない。
母に憎まれて、家からも無用となって、どうして生きていけばいいかわからない。
やりたい事があったわけではなかった。
特別な興味を持つものもなかった。
守るべきものなど、何もなかった。
だが、それは、突然だった。
ダンッと強く拳を床に叩き付けた。
指が痛く熱かったが、構わなかった。
あらん限りの力を込めて床から顔を上げて、足を動かす。
ただもがいて、床を這いずる。
「うぁああぁあぉおあああ!!!」
服が汚れようが、足が切れようが構わなかった。
痛みなど耐えられる。
だが、この心を突き動かす激情は耐えられなかった。
ろくに声の出ない咽喉で呻きながら、前へ進む。
数センチも動けただろうか解らなかった。
それでも手を伸ばして、前へと身体を動かそうともがく。
死というものが目の前に迫ってきて、私が抱えたものはなんでもない。
ただの怒りだった。
そしてただの恐怖だった。
「くっそぉおおおお!!」
涙が込みあがってくるのを必死に耐えて、胸と咽喉が熱かった。
肩が、重みに耐え切れずギシギシと悲鳴を上げて、指先から血が噴出す。
だが今は、その痛みに縋るように力を込めた。
やりたいことなど、何もなかった。
本当に私を必要としている人間など、いないと想っていた。
なのに、私は今の今まで、それに気付こうとしなかった、目を伏せていた。
心のどこかで、気付いていながら、違うのだと目の前にある現実に逃げ込んだ。
知るのが恐かった。
自分が1人なのだと想うことが恐かった。
知るのが恐くて、誰にも問うことも出来なかった。
そうだと頷かれるのも恐かった。
だからと言って、誰かを探すことさえしなかった。
世界が狭いのだからと、自分を許して、甘やかした。
なのに、今必死になってもがく。
誰かに必要とされていたかった。
誰かに認めてもらいたかった。
バク・チャンという、私という1人を必要としてくれる、誰かが欲しかった。
いや、それを超えて想う。
死にたくない。
もっともっと生きていたい。
それは純粋な本能だ。
生きて、そして誰かに名を呼んでもらいたかった。
今までの愚かさも惨めさも。
そして、寂しさも全部伝えて知って、それでも。
それでも、どうか逃げないで。
誰かに呼んでもらいたかった。
懐かしい香りに、意識が覚醒していく。
ぼんやりとした視界に、動く何かが見えた。
人の気配。
だが、長く目を開けていることも出来ず、直ぐに瞼が閉じてしまう。
「誰だ?」
「気がついたみたいだな。」
何日ぶりに聞いた人の声だったが、誰のものか解らなかった。
女性特有の高く、だが酷く幼い声に聞こえた。
なんとか目を開けると、そこには初めて見る少女がいた。
「ほら、とりあえず水と食事とらねぇと。
薬も飲めないし。」
そう言って、私の顔の傍らにスープと粥が乗った盆を置くと、有無を言わさず私の腕を担ぎ上半身を起こした。
掛けられていた毛布らしきものを、彼女が脇へと追いやる。
倒れたときのことを思い起こそうとすが、今いる場所とは違う気がする。
もしかすると、彼女が運んできたのかと思う。
かなり小柄な少女だが、私を起こす仕草に、まったく重たげな様子もなかった。
よく見れば、彼女はかなり変った格好をしていた。
身長は私と同じぐらいだったが、水着のように露出の高い服に指も見えない大きな袖。
変った形の帽子からこぼれる髪は、桃の花で染めたような色をしていた。
そして、幼い容貌を飾る真紅の瞳。
「自分で・・・・は無理そうだな。」
彼女は、私を壁に預けると、盆を自分の傍に引き寄せた。
彼女の視線が、ダラリと落ちて小さく震える私の手を見ていた。
視線を追えば、傷だらけだったはずの指は包帯が巻かれている。
「すまない・・・・。」
「あぁいいって。」
気にした風もなく、彼女は自分の口にスープを含む。
私も彼女が何をしようとしているのかを察した。
そのまま彼女は、私が小さく開いた唇に自分のそれを重ねる。
湯気が立っていたはずのスープが、少しぬるくなって私の咽喉を伝って胃に落ちていった。
彼女は、次に指で粥を掬うと吐息を掛ける。
それをまた、私は彼女の指ごと口に含んで、そのまま飲み込む。
薄く味がつけられた粥は、今まで食べたどんな料理より美味しかった。
「旨いか?」
問われて、思わず涙が零れ落ちた。
数日振りの人と食事が、痛みさえ超えた緊張状態を解いた。
考えていたことも、感じたことも、今全てが圧し掛かってくるかのようだった。
「うぅっく・・・・ふぅう・・・・。」
言葉が咽喉で詰ったように、嗚咽だけが落ちる。
痛む指で涙を拭うことも出来ず、ただ泣いた。
どんな言葉で言えば、あの時の気持ちは表すことができるのだろうか。
苦しいほどの恐怖も孤独感も。
羞恥も、ひたすらに必死だった時よりリアルで、もどかしく苦しくて胸が痛い程。
「あぁ、泣くなよ。
もう、終わったんだ。」
小さな彼女の手が、私の瞼を撫で、涙を拭った。
彼女の言葉の意味が解らず、拭われた目で彼女を見た。
力強く笑う彼女は、私の頭ごと抱える様に抱きしめた。
冷たい身体は、人の体温を持っていない。
「あたしが、あんたの曾じじいの遺産だ。」
待っていた。
憧れて止まないたった一つのものが。
この冷たい聖堂で、たった一人で待ってくれていた。
「今頃上は、てんてこ舞いしてら。
お前、2週間近くここで迷子だし・・・その間ずっと上は全員退去してたしな。」
愉快そうに、彼女が笑っていった。
申し訳なさよりも、2週間も彷徨っていたことにまず驚いた。
特に支部の地下に入ってからは、時間の感覚が無かったが、5日間も迷っていたらしい。
今思うと、よく正気でいられたと思う。
一応私がこの地下に入ってからは、上は人が戻ってきていたらしいが、それでも1週間以上業務が停滞していたため、未だに仕事が終わらないと言う。
フォーは、ここを守る番人らしく、曽祖父が作ったここの結界の結晶体だそうだ。
だから人間ではなく、装置の一部ということで、パーソナルは人間と変わりなく作られている。
ここを守る結界として、侵入者を判別するというのも、彼女の仕事らしい。
相手は当然人間やアクマということになり、相手の悪意や行動を正確に理解するためにだそうだ。
そしてもう一つ。
「私は、審判をしなきゃならないからね。」
「審判?」
「そう。
遺産を受けるに足る人間かどうかを見極めるのも、私の役目なんだよ。」
空になった食器を脇に置くと、フォーは薬を手に取った。
また水を含み、私に口付けて流し込む。
口付けというものなのに、何度されても、なぜか恥じらいというものを不思議なほど私は感じなかった。
フォーが人ではないからというわけではない。
むしろ、私の周りにいる誰より、フォーは自然で人間らしいぐらいだ。
驚くほど、私という人間に、彼女は馴染んでいるのかもしれない。
「お前、黒の教団についてどの程度知ってる?」
問われて、私は知っていることをありのまま話した。
ヴァチカンに作られた対千年公爵軍事機関であり、イノセンスの発見と保護を目的としている。
イノセンスは、アクマを破壊することの出来る唯一の武器である。
アクマは、千年公爵によって作られた生きた兵器。
死んだ人間の魂を使い、生きた人間の皮を被った残忍な感情を持った機械だという。
だからこそ、黒の教団は、まだ未知の部分の多いイノセンスの研究開発やイノセンスを扱うことの出来る適合者。
つまりは、エクソシストを育成派遣、または保護を担っている。
「結構。
そこまで知ってれば充分だろうな。」
「私は、その黒の教団の創始者の曾孫に当たると聞く。
一族のほとんどがこの教団に順ずるのだから、コレぐらいのことは。」
「だが、この世界でアクマを知っている人間は多くない。
千年公爵のことを知らず、その犠牲になっている人間は数え切れない。」
千年公爵。
小さな頃から耳にはしていたが、私にはまるで昔語りの中にいた悪役のような印象しかなかった。
多くのAKUMAを作って、人を殺し、多くの不幸を作り出していると聞く。
人から見て、存在悪であることは解る。
許されないものだということも。
なのに、人づてに聞くだけのその話では、どうしてもや感情が湧かなかった。
そう、まるで遠い国の誰かの喧嘩話を聞いているようで。
「アクマを生み出すため、千年公爵はあらゆる手引きしている。
虐殺や戦争、人の心を歪ますためなら何でも・・・・。
黒の教団で働く人間の中には、その犠牲者の遺族や近親者も多くいる。
お前も、そうだな。」
「あぁ、AKUMAに殺されたそうだ。
見たことも無い父だったからな。」
記憶に無い父。
写真の中だけの両親。
ただ、自分をこの世に生み出しただけの人たち。
母は健在だが、生きているのも死んでいるのも大して変りがしなかった。
今までは。
今は、少し彼らが憎いと思わなくない。
自分でも自嘲的な笑いが浮かんでいるのが解った。
目の前のフォーが、痛ましげに顔を歪めたから。
そっと、まるで壊れ物のような繊細さで私の頬に触れた。
そんなたわいも無いことが、少し嬉しくもあった。
だが、次に聞く言葉は、思っていたどれとも違った。
「すまなかった。」
大きな声ではなく、水面に落ちる1滴の水滴のような声が私の耳を打った。
意味が解らず、首をひねるばかりだ。
「何がだ?
なんでフォーが謝るんだ?」
謝ることなど何も無い。
彼女は瀕死の私を助けてくれたし、手ずから看病をしてくれた。
私の不安を消してくれた。
感謝こそすれ、何を謝るというのか。
「お前を孤独にしたのは、私だ。
お前を孤独にするのは、私と、私の創造主だ。
お前に・・・お前達チャン家には、私達を憎む権利があるんだ!」
「何故だ?
フォーは私を・・・」
「違う!!!
お前から両親を奪ったのは、私達なんだよ。」
「そんなことない。
私の父を殺したのはアクマだったし、母は教団にいるんだ。」
何を言っているのか解らない。
彼女がどうしてそんなことを言うのかが解らない。
まるで泣きそうな顔で、言葉を吐くフォーが痛ましくて、私は否定することしか出来ない。
「違うんだ。
お前が今まで両親といられなかったのも。
チャン家という家に縛られてたのも、私とお前の曽じじいの謀なんだよ。」
憎しみと哀れに飲み込まれそうな瞳が、私を射抜いた。
否定の言葉は、出てこなかった。
ただ、問う言葉も出なかった。
信じたくない気持ちが、体の底からドクドクと湧き上がり、止まっていた震えが体に広がっていく。
いつの間にかおろされていた彼女の手が、拳を握っていた。
「ここの結界は、チャン家の血族にしか操作できない。
チャン家の直系にのみ受け継がれる、甚大な魔力。
そして、流れる一族の血が、この結界を操作するのに必要になる。
その為にチャン家の人間、特に直系なら生まれると同時に、教団への入団が義務付けられる。
そして、それ故にお前達の一族は、孤独を背負わされる。」
「どういうことだ?」
「お前達には、愛するものを作ることを許されない。
それは、教団からのチャン家への制約であり、そしてお前の曽じじいがそれを受け入れた。」
頭の中が真っ白になった。
フォーの言葉の意味が、理解できなかった。
いや、どれだけ言葉を尽くされたとしても、理解などしたくはなかっただろう。
「千年伯爵は、愛するものを奪い、その心の悲しみを喰らう。
そして、その悲しみと憎悪を感じ取って、アクマを作り出す。
チャン家は、黒の教団の創始者の1人で古い魔術師の一族でもある。
だからこそ、千年伯爵はチャン家からアクマを作るために、何度もチャン家の近親者を無残な死に追いやった。」
覚えがあった。
父の死に様がどのようなものだったか。
誰も口にはしなかった。
「お前の父は、エクソシストだったよ。
母親はチャン家の当主として、お前の父を愛さなかった。
だが、お前の父はお前の母を愛していた。
いや・・・アレは崇拝していた・・・って感じだったな。
お前の母の為なら命を捨てることも、厭わなかったし、そうすることを望んでいた。
そして、お前の母も・・・愛することが出来なくても・・・それでもアイツと共にいることを望んでいたんだ。」
愛することは出来ない。
だが、共に死ぬことも許されない。
それがチャン家。
「お前のこともそうだ。
お前を産んでも共にいることは出来ない。
情を持ってはいけない。
持たせてはいけない。
どちらかが死んでも、どちらかが蘇ることを望まないように。」
母は、けして私の名を呼べなかった。
私も、けして母の名を呼ぶことは出来ない。
永遠に1人でこの人生を歩き続ける。
「だが、この結界をなくすわけにはいかない。
アジア支部はアジア諸国、特に日本には伯爵のAKUMA製造のための施設があるといわれるほど多くのAKUMAがいる。
戦闘は熾烈だ。
それをサポートするために、この支部は絶対不可欠で、結界がなかったらひとたまりも無い。
だが・・・・それでも・・・・・。」
続く言葉は、沈黙に消えた。
多くの言葉に、感情は未だついて来れなかった。
だが今さら何を知ったところで、父も母も愛することは出来なかった。
これからも、思い出など作ることも出来ない人たちであることには、変わりない。
恋しいとは思わない。
なのに酷く空しく、そして寂しく思う。
「この扉の中には、この結界の本体がある。」
フォーの手が、私の凭れていた扉に触れると、その手がズブリと扉に溶け込んだ。
少し驚く私に、彼女はもう片方の手を私に差し出した。
「私と一緒なら、今のあんたもこの扉の中に入ることが出来る。」
「入って・・・どうしろと。」
「好きなようにすればいいさ。
ここの結界を継ぐ気なら、この中で契約をしなくちゃならない。
入りたくないなら、それでもいい。
ただ・・・・」
「ただ?」
一瞬言葉を千切り、言葉を飲み込んだ。
だが、次の瞬間、全ての迷いを断ち切るように、彼女は言った。
「ただ・・・もしお前が望むなら。
お前が望むなら・・・・この結界ごとぶち壊せばいい。
お前には、その権利がある。」
唾液を飲み込むことさえ酷く辛い。
痛いほど空気が硬くて、フォーの覚悟が知れた。
「結界を壊せば、フォーはどうなるんだ。」
「そんなことは、どうでもいい。
お前がどうしたいかだけ、考えればいいんだ。」
だが、その言葉が、私の問いに答えているも同然だった。
おそらく本体が無くなれば、彼女は跡形も無く消えるのだろう。
私の心は、もう決まっていた。
あの試練のとき思った。
死を感じた瞬間、もうあんな孤独は嫌だと、心底思った。
それは、今も同じだ。
誰かに隣にいて欲しいと思う。
誰かと心を分け合って、そうやって生きていきたい。
「私は、母のようには生きない。
誰か・・・自分以外の誰かと生きていたい。
一人ぼっちは・・・もう嫌だ。」
正直な気持ちだった。
例え我侭だといわれようとも、傲慢だといわれようと。
どれだけの人に笑われようと、もうこの望みは捨てない。
絶対に手放さない。
「そうか。
なら・・・行くか。」
私は彼女の手を取った。
フォーは、私を責めなかった。
ただ、静かに笑って、私の手を握り返した。
小さな手は、冷たくて人の体温など持っていなかった。
それでも。
だからこそ。
私は、けして、けして捨てない。
この生き方だけは、父から受け継ぐことが出来たのかもしれない。
「なっ・・・」
小さなフォーの悲鳴は、私の胸に消えていった。
怪我であまり力の入らない手だったが、それでも彼女を引き寄せることが出来て、正直ほっとした。
「バク?」
私に倒れこんできた、フォーの体を抱きしめる。
肩から背に腕を回すと、冷たい体温は、彼女が人ではないと伝えてくるようだったが、構わなかった。
むしろ、それが哀れで、申し訳ない気持ちになった。
彼女が背負ってきた苦しみだと思うと、涙がこみ上げてきた。
「遅くなって、すまなかった。」
腕の中のフォーの体が、ピクリと小さく動いた。
構わず私は続ける。
「君を1人にしたのは、私達チャン家だったのに。
君を・・・1人にして悪かった。」
「何を・・・」
見下ろすと、丁度顔を上げたフォーの真紅の瞳が見えた。
体から、ガクリと力が抜けたのを感じて、私は彼女を支えた。
背丈は、私とそれほど変わりないのが幸いだった。
「ずいぶん遅くなったが、もう君を1人にしない。
例え、私がどこへ行こうと、どこで死のうと、私の心の全てを君に預ける。
ずっとずっと長い間、1人きりしてすまなかった。」
「お前・・・・。」
「それにしても、曽祖父の代からか・・・。
私の11年の人生に比べれば、あまりにも長すぎるな。
もっと早く会いたかった。」
祖父が、母が、フォーをどう思っていたか。
それは、解らない。
だが、彼女は孤独を感じていた。
私の孤独に気付いたということは、彼女がそれを知っていることに他ならない。
つまり、誰も彼女の心に寄り添うことはせず、ただ当主という仕事を全うしていただけなのだろう。
だからこそフォーは、チャン家の苦しみと、そして彼女の孤独を終わりにしようとした。
チャン家を責めることもなく、ただ終わろうと。
きっと彼女は、運が悪い。
まさか、そんな時に私が現れるなんてきっと最悪だ。
だが、私には最高だ。
ついに見つけた。
ついに出会うことが出来た。
「やめろ、同情ならやめろ。
いいか?
私と共にいるってことは、この教団に縛られることになるんだ。
教団に縛られるってことは・・・お前・・・。」
突然、強く握られた胸倉が少し苦しかった。
だが、必死に言い募るフォーには、気付く様子は無かったし、私も構わなかった。
同情といわれれば、違うとは言えない。
だが、それだけではない。
コレはフォーの為であったが、何より私の為でもある。
コレは呪縛ではなかった。
もし名をつけるなら、私は新しく絆と名づける。
「いつかウォンが言っていた。
”神はいる”ってな。」
「神?」
「あぁ。
今まで会ったことが無かったから、てっきり天上に住んでいると思っていた。
まさか、こんな地底にいるとは思っていなかった。」
ずっと昔に、一度ウォンに聞いた時のことを思い出す。
彼の言った神は、おそらく黒の教団の信望する神のことだということはわかっていた。
千年公爵という苦しみや悲しみ、孤独からから、私達を救う神。
だが、それでも、彼の言ったことは嘘ではなかった。
「神・・・私が?」
「あぁ、私にとってフォー。
君が神だ。」
フォーは、まるで初めて聞く単語に戸惑っているようだった。
しばらく、目を瞬かせていたが、突如表情が一変した。
「ハッハハ・・・・神?
私が?」
「あぁ、そうだ。」
頬を引きつらせて笑う姿が、何よりもの怒りだと感じた。
「ふざけんな!!
私が神だって!?
私はここの結界、番人に過ぎないんだよ。
神どころか、人間でもない。
ただの結界っていう物の一部でしかないんだよ!!」
「違う。」
「いいや、違わない!
お坊ちゃんで、世間知らずだからわかってねぇんだよ。
お前は、ただぼろぼろになっているのを助けられたから、私をそんなふうにみてるだけなんだ。
勘違いするな。
お前を1人したのも、こんな試練を受けさせたのも、私なんだよ。
お前の母親が本部に栄転になったから、後釜が必要になった。
だから、こんな試練を受けさせられたんだ。
それだけなんだ、誤解するな、解れよ、勘違いすんじゃねぇよ!!」
凭れていた私の胸倉を掴み、扉に叩きつけるように打った。
さっきよりも、もっと苦しかったが、やはり私は構わなかった。
ただ、さっきと違う激しい感情は、私にもあった。
「違う。
お前がなんて言おうが、お前は神だ!!」
「違わない!!」
「だったら、この安らぎは何だっていうだ!!!」
胸倉を掴まれていた手をとる。
ありったけの力を込めて、声を出す。
「お前に会って、初めて知ったんだ。
この安らぎも、喜びも、まがい物だというのか。」
「そ・・・そうだよ!!
今まで2週間も1人で居たもんだから、そう感じるだけで・・・・。」
「違う。
もしそうなら、どうして私はお前を憎めない。
憎悪なんて欠片も感じないぞ。」
「それは、お前が私に同情してるからで・・・。」
「同情は否定しない。
孤独を辛さを知るお前に会って、正直同情もしているんだろう。
哀れさもある。」
「だから・・・」
「だが、ならこの感謝の気持ちはどう説明すればいい!!!」
チャン家に生まれたことを、不幸だと思ったことはなかった。
裕福だと思ったことはあった。
だが、幸福だと思うことは少なかった。
その私が、初めて感謝することができた。
「チャン家に生まれたこと、曽祖父の血を受け継げたこと。
心から信じることが出来る者が、こんなにも近くにいてくれたこと。
その者と共に歩んでいける力を持てたこと。
この家に生まれることが出来たこと。
全部ひっくるめて、今なら誇りに思える。
どれだけ、感謝してもしたり無い。」
「バク・・・お前・・・。」
例えフォーにも、この気持ちだけは、否定させない。
強く、けして負けないように力を込めて彼女を見た。
見たつもりだった。
彼女の姿がグニャリと歪み、次の瞬間には体が床にぶつかった。
「バ・・・バク!!
オイ!!しっかりしろ!!」
「わ・・悪い。」
「バカバク!!
栄養失調のときに、無茶しやがるから・・・・。」
薬が効いてきたのもあるのかもしれない。
急激な眠気を感じ、必死に抵抗するが、勝てる気がしなかった。
だが、歪む視界の中で、何とか彼女の袖を掴んだ。
「バク?」
「悪い、少し眠る。
契約とやらは、その後にしてくれ。」
「それは別に構わないけど・・・。」
おそらく近くにあった毛布が、私にかけられた。
毛布の暖かさが、また私をほっとさせて、一歩眠りに誘う。
もう瞼が開かない。
「かなりその・・・寝ると思うんだが・・・」
「あぁ、だから別に・・・」
「その間に・・・どこにも行かないでくれ。
頼む。」
我侭を言っているのは解っている。
だが、出来ればそばに居て欲しかった。
こんな我侭、今まで言ったことが無かった。
「なっ・・・なんで。」
「起きたら、お前の気が変らない前に、直ぐ契約を・・・。
あと・・・まだ言いたいことも・・・・山ほどある。
だから、ここにいてくれ。
でないと・・・今すぐにでも・・・」
もう目も開かないことも解っているのに、無茶を言った。
それでも何とか起き上がろうとすると、彼女は直ぐに折れてくれた。
「わかった・・・わかったから。
ずっと居るから、とっとと寝ちまえ。」
「絶対だぞ・・・・。」
「解ったから・・・ったく。
しょうがねぇなぁ。」
幾分慌てた彼女の言葉を聴いて、私は今度こそ力が抜けた。
もう完全に、体は眠ってしまったようだ。
口もろくに開きそうに無い。
ただ思考と耳だけが、微かに起きて彼女の言葉を聞いていた。
「お前・・・バカだな。」
それを最後に、もう全てが眠りについた。
夢が幸福であることを、疑うことなく、私はそれに身をゆだねた。
神とは、空想の生き物だと思っていた。
そう思っていたあの日は、もう遠い悲しいただの夢のようなものだ。
END