どれだけ甘味好きで、全うな授業なんて、殆どなくて。二日酔いで授業を自習にしちゃったりとか、もうコレでもかと言うぐらいに、駄目な先生というか駄目な大人の見本でも。
やっぱりあの人は、僕よりも大人で先生には違いない。
僕がコレまで歩いてきた人生よりも、ずっと長く生きていて、その間にはきっといろんなことがあって。その差は永遠に、それこそ僕がジタバタしたところで埋まったり、減ったりするものじゃないことぐらいは、僕だって分かっているから。
だから、如何すればそのため息を掻き消せるのかを、僕は知らない。
peacock blue
体育の授業を終えれば、次は四時限目は数学だった。休憩時間なんて、着替えだけで終わってしまうぐらいの短いものだ。手早く着替えを終えた新八はすぐに更衣室を出ようとした。
「しんぱちぃ。
慌てちまってどうしたんでぇ。」
「あっ・・・とぉ。
ごめん!!僕ちょっと、・・・そう、購買に行く用事があるから!!!!」
学友の沖田の言葉に、あからさまに今考えましたといわんばかりの返答だけして、新八は更衣室を飛び出していった。そんな新八は、いつもと違う様子に沖田が疑わしき眼差しを向けていたことなど、気付くことさえなかった。
チャイムが鳴ると、パラパラと教室から出てくる生徒たち。短い休憩時間に教室を行き来する生徒の間を縫うように、新八は走る。購買を通りすぎ、そのまま2階への階段を駆け上がり、職員室の前を右折して渡り廊下をひた走る。渡り廊下から見るグラウンドの木々は、まだ青々と茂っているが、風は数週間前と比べれば格段に涼しくなった。もう秋の足音が聞こえ始めている。
見えてきたのは、二階の突き当たりの教室。その数メートル先から、新八は足を止めた。そして慌しい呼吸を整え、いつもの歩調を思い出すようにして歩いて目当ての教室の前に立つ。
その教室に札はかかっていない。今は使われていない空き教室で、空きになる前は、図書室の倉庫だった。数年前に隣がPCルームとなり、図書室は場所を変えて丁度真上に移動された。だが、倉庫だったここは、教室にするにも狭すぎる為に、そのまま空きになり、末路として元々の図書室の管理を任されていた国語教師の塒と成り果てた。
新八は、そのことを知っていた。いや、知っていたというよりも、教えられたのだ。それを教えたのは、この空き教室の主本人。
新八は拳を作り、一瞬だけ惑いながらも、すぐに戸を軽くノックする。
「先生。」
待ったのは数秒。すると中からごそごそと言う物音が聞こえてきた。
「3Zの志村です。
坂田先生、いらっしゃいますか。」
「・・・ぁああ~。」
今度は、まるで象があくびでもしているかのような返事が来た。そして、がさがさという何かを掻き分けるかのような音の後に、ガラガラと扉が開いた。
出てきたのは、白髪というには光沢のある無造作な髪と、半開きの目。そして新八よりも頭一つ半ほど大きな身体のこの部屋の主。坂田銀時。通称銀八がのっそりと出てきた。
「どうしたぁ?」
如何した。そう言われて、新八は答えに窮した。実を言うと、新八は特別な用事などなかった。四時限目までの10分の休憩に、走ってきておきながら、何もなかった。ただ、一つ。どうしても伝えたいことがあっただけだ。しかし立ち話で終われる話じゃない。
「お茶ください。
冷たい奴。」
「あぁっ、コラ!!」
そう言って、新八は銀八の返答を待たずに、するりと扉と銀八の間を潜って中へと入った。
中は薄暗く、広くはないが、狭くもないはずだ。いくつかの本棚が天井近くまである所為でどうしても狭く感じられる。だがせっかくの大きな本棚には隙間が空き、其処にはかつて本が納められていたのが分かる。しかし今は、あからさまに銀八の私物と思われるコーヒーメーカーやジャンプ、菓子がところどころに置かれているだけだった。
新八が振り返りちらりと銀八を見る。すると銀八は一つため息をつき、頭をがりがりと掻いて、そのまま扉を閉めてしまった。
「ったく・・・おめぇは。」
了解が得られた。そんなことが嬉しくて、思わず新八は笑みを浮かべた。それは18歳にしては少々子供っぽい笑みだったかもしれない。
「体育で疲れたから。
冷たいお茶がのみたいなぁって。」
「水飲んでりゃいいだろう。」
「いやですよ。
ぬるいし、ココなら冷たいのがあるって知ってますから。」
銀八がお茶を入れてくれている間に、新八はそのまま奥まで入る。歩くたびにグレーのリノリウムの床がきゅっきゅと鳴った。扉から最奥にはこの部屋唯一の机があり、そのさらに向こうには大きな窓が一つあった。開け放たれた窓からは、グラウンドを通った風が心地よく入ってきて、部屋に染み付いた古い紙の匂いを少しだけ洗った。机の上は、相変わらず散々な状態だった。灰皿には灰の山ができており、授業で使うプリントと資料を、新八にはまだ難しい分厚い本がグラビアをサンドイッチしていた。それ以外にも一体何に使うのか分からないようなガラクタらしきものもある。
「ほら。」
新八の頭にコツリと冷たいものが当たる。それを手で受け止めると銀八の手がそっと離れた。目の前に持ってくると、紙コップに入った麦茶があった。
「ありがとうございます。」
「それ飲んだら、とっと行けよ。
次あんだろう。」
銀八はそのまま新八の前を過ぎて、自分の椅子に座る。新八は自分は如何するかと一瞬だけ迷ったが、座ることはせず本棚に少しだけ寄りかかった。そうして銀八は自分のマグカップに並々と注がれたイチゴ牛乳の飲む。こういう姿を見るたびに、新八は、銀八の味覚だけは5歳児と変わらないと一瞬だけ思う。そう一瞬だけ。
知っているからだ。イチゴ牛乳を飲むその口で、けして自分では手の届かないタバコを吸っていることを、風に流されてくるその匂いで感じる。ふと、新八の胸がズキリと軋んだ。
「先生。」
「うん?」
「迷惑でしたか?」
銀八のマグカップが、ぴたりと止まる。しかし数秒後には、何も言わずにまたイチゴ牛乳を啜った。
外を生徒が通り過ぎた。何かにはしゃいでいるような声。校舎の近くを走る電車の滑走も、聞こえてきた。でもそのどれもが、同じぐらいに遠く思えた。風に流されたカーテンが見せる空は、夏の空よりも少しだけ薄く感じた。
「好きって、言ったこと。
迷惑でしたか?」
新八は、もう一度聞きなおした。
新八が銀八にその胸の熱を伝えたのは、数日前のことだった。
元々やんちゃの多い3Zの中で、唯一と言ってもいい真面目な部類に入る新八が、学級委員に任命されたのは、もはや自然な流れだった。殆ど、周りに押し切られる形で引き受けるハメとなり、そんなクラスをまとめるためには、どうしても担任である銀八と接する機会も増えた。親しくなるに連れて、お互いの人となりを知り、お人よしな新八の気性を知った銀八が、当たり前のように雑務を頼むようになるのにも時間はかからなかった。ノート集めや採点。この部屋の片付けに始まり、近頃では週に何度か弁当を作ってくれと頼んだこともあった。
「僕は、迷惑じゃなかったから。」
新八は坦々とそう言った。それは胸の中にずっとあったからこそ、すぐに取り出せた言葉だった。
そう、新八は、銀八に頼まれたことを、全てこなしてきた。落書きの多いノートを集め、生徒なのに採点して、時々いかがわしい本さえ落ちているこの部屋を掃除して、モップで床を磨いた。弁当を作ってくれと頼まれたときは、嬉しささえ感じてしまったのだ。形だけの文句を言っては、最後は銀八の頼みを引き受けてきた。それが、惚れた弱味だと気付いたときの悲しさこそ、言葉にならないものだった。
彼のどこに惹かれたのかと言われれば、新八は胸の中でいくらでも上げられる。いつもはやる気など欠片も見せないくせに、生徒のことには真剣になってくれる。雑務をすると頭をなでて、絶対に褒めてくれる。真面目で鈍いゆえに、騒がしいクラスに溶け込めなかった新八に、手を差し伸べてくれたのも銀八だった。
でもそのどれもが、後から分かっただけの理由だ。もっとシンプルで、そして最大の理由。それは坂田銀時の持つ空気そのもの。まるでこの部屋のように、そっと入っても、拒まれたりはしないその空気が新八は好きだった。
「先生が好きだから、先生に何頼まれても、迷惑じゃなかった。
先生がそんなつもりないって分かってても、好きだから。
好きって想う前も、後も。」
伝えてしまったのは、偶然だった。本当は新八も、言うつもりなどなかった。
好きだと気付いた瞬間に失恋したような恋に、望みと可能性を吐き違えるほど、新八は子供ではなかった。自分がまだ学生であり、相手が教師である。それだけでも可能性は皆無に近いうえに、同性なのだ。叶うはずのない気持ちは、相手の迷惑以外以外何ものでもないだろう。
しかし新八は其処まで分かっていながら、伝えてしまった。
「言うつもりなかったんです、本当は。
でも、先生が他の女の子と話してるのみたら、なんか・・・堪らなかった。」
偶々廊下で他の女子生徒と立ち話をしている銀八を見ただけだった。可愛らしい子で、その細くて柔らかそうな手が、銀八の腕にするりと絡みついたのを、見ただけだったのだ。しかし、そんななんでもないことに、新八は嫉妬してしまった。湧き上がってくる不快感と疎外感。その人に触るなと言いたかった。
分かっていたのに。新八は自分が銀八のお気に入りの生徒である自覚はあった。でもどれだけお気に入りであっても、それは他の生徒よりちょっとだけ近くに居られるというだけの特権でしかないのだ。女生徒でもない自分では、彼女のように腕に触れるにも、確固とした正当な理由が要る。そのことが悲しくて。どれだけ好きでも、絶対に手に入らないのだと思うと、涙が零れたのだ。でも、そんなこと言えるわけがない。言っていい理由もない。だから新八は下手な嘘をついた。
”目にごみが入っただけだ”と。
それで引いて欲しかった。引いてくれると新八は思ってたのだ。だってそれは当然の理由だから。下手でもばかでも、ちゃんとした理由だ。ごみが入ったから泣いている。
でも、銀八はそんなちゃんとした理由を蹴散らした。新八の腕を引き、強引にこの部屋に連れ込んで、そして新八が隠していた想いを、無遠慮に暴いたのだ。
「いや、俺が悪かったよ。」
銀八がはじめてそう言った。暴いたときでさえ、何も言わなかった銀八からの、それが初めての返答とも言える。新八は、それをただ静かな気持ちで聴いていた。そう言われるような気がしていたからだ。
銀八が教師で男で、新八が恋愛の範囲に入るわけがない。銀八のその領域に入るための資格を新八は何一つ持ってはいない。だからコレは当たり前のことで、銀八を恨んだり、酷く言うのは筋違いに他ならない。新八は何度も繰り返して、まるでまじないのように頭の中で繰り返した。
「先生さっき、ここから僕らの授業見てましたよね?」
窓の向こうには、先ほどまで新八が居たグランドが見える。もうすでにちらほらと、次のクラスが入っていた。
「良く見えたな。
メガネの癖に。」
「すぐ分かりますよ。
先生、頭も白衣も真白ですから。
でも先生の顔までは見えなかった。」
「そりゃそうだろ。」
「でも、きっと困った顔してる気がしたんです。」
違いましたか。確信を持って、そう問いかける新八の響きだった。
そして、机の上に、少しだけ中身の減った紙コップを置き、銀八の額の上に、そっと指をかざした。触れるだけの理由がないから。だから触れないぎりぎりで、そっと髪を掻き分けて、こめかみの横を通り過ぎる。露わになった表情は少しだけ苦しげだった。
「こんな顔、してる気がしたんです。
だから急いでココに来ました。」
ただ言わずに居られず、暴かれた気持ちが悲しくて仕方がなかった。そして何より困らせるだけの自分の幼さが、苦しかった。好きと言う気持ちが、相手にとって迷惑にしかならないほど幼い。しかし年の差、性別の差を埋める術など、どの教科書にも、雑誌にも載っていない。誰も教えてはくれないのだ。ならば、手放す以外にない。
「志村。」
「ごめんなさい。
忘れてください、全部。」
嘘だと、心が言っている。それでも新八は言葉を続けた。唇を動かす。
「全部って?」
「本当のこと、全部です。」
あの時には、失敗した笑顔を、今度こそはと新八は取り繕った。唇を上げて、顔から力を抜いた。笑みの作り方を、頭の中で必死になぞる。いつも銀八の前では苦労なんて一度もしなかった笑顔を作ることを、その時、新八は初めて意識をして作った。
そうでなければ、また泣き出してしまいそうだった。でも今度こそ間違いをしたくはなかった。今度こそ上手に。それだけを思う。
「だって、足りないから。
僕はまだ18で、子供で、生徒で、男で。
何にも・・先生に届かないから。」
先生のお気に入りでは、足りない。
聞き分けの良い生徒では足りない。
どれだけお弁当が美味しくても、真面目でも、銀八の”坂田銀時”の領域に届かない身の丈なら意味がない。
「あの時は、目にごみが入ったんです。
だから、痛くて涙がでたんです。」
この嘘だけをそっと置いておけば、いい。あの後にあった本当のことは全て、忘れて欲しかった。
それが18の新八に出来る精一杯だった。
新八の手がそっと離れる。しかし銀八の表情はまだ苦しげだった。それを見て、新八はやはりまだ足りないのだと思った。しかしこれ以上の言葉など、今の新八の中には見つからなかった。
その時、コンコンっと、ノックが響いた。
「銀八先生~!!!
いませんかぁ?」
扉の向こうから聞こえてきたのは、新八の聞き覚えのない数人の女生徒の声だった。新八はそっと銀八から離れた。もうこれ以上笑顔を作れる自信もなかった。
「せんせぇ。」
外の生徒が呼んでいる。新八はそのまま出て行くつもりだった。だが、次の瞬間景色がぐにゃりと揺れ、唇に太い何かが割り入って来た。その驚きに、新八は咄嗟にそれを噛んだ。
「静かに。」
「ふっぅ・・。」
耳元でささやかれた声は、銀八の物だった。その声に、新八は反射的に息を呑んだ。
それだけではない。新八の腰を絡め取った銀八の腕に引き寄せられ、新八は背中一杯に銀八の体温を感じ取った。何より新八の唇には、銀八の人差し指と中指が、下の歯に引っかかるように差し込まれている。新八はそれが銀八の指なのだと気付き、ゆっくりと唇の力を抜き舌を引っ込める。だがどうやっても銀八の指は一向に出て行く気配がなく、指の感触が口の中に生々しく感じられた。銀八のタバコと甘味の匂いで、体中の血液が沸騰しそうなほどに煮立ち、身体の奥で暴れているのを感じた。
数秒の沈黙だった。スピーカーから授業を開始するチャイムが、鳴り響く。すると戸口に居た女生徒たちは、諦めたらしくパタパタと足音を立てて、走り去っていった。
チャイムの余韻が消えた頃、ゆっくりと口内をなぞりながら、銀八が指を引き抜いた。しかしその指は、まるで新八の唇を弄ぶかのように、なで続ける。
「せ・・・・んせぇい・・。」
震える声で新八が呼ぶと、腰に絡んだ腕がさらに引き寄せられる。銀八が何を思っているのかが、新八にはまったく分からなかった。その分からなさが、恐くて足に力が入らない。
「足りないに、決まってんだろう。」
そっと小さく囁かれた声は、怒りにも似ているような声色だった。今まで銀八のこんな声を、新八は聞いたことがない。何を怒っているのか。自分がとんでもない間違いをしてしまったと思うと、涙がこみ上げてきた。
「お前の18年でなんか、足りるわけねぇんだよ。」
そして今度は、腕をつかまれ向かい合わされると、そのまま本棚へ押さえつけられた。覆いかぶさるような銀八が、新八の視界一杯に広がる。一瞬だけ、銀八の目が揺らぐ視界の向こうで見えた。つかまれた腕が燃えてしまいそうなほど熱い。でも、それ以上に熱いものが、新八の唇を強く塞いだ。
それが何か。理解するよりも早く、銀八の空いた片手が新八の頭を掴み、けして逃がすまいと捕まえてさらに深く重ねる。新八は分かることは、唯一つ。何一つ分からずにただ立っていたその場所から、突き落とすような乱暴な熱だけだった。
「俺がほしいのはな、そんな5年や10年でホイホイ埋まってくれるもんじゃねぇ。
てめぇの一生で、やっと埋まるか如何かって、そういうもんだよ。
お前に、その覚悟があんのか。」
どれぐらいそうしていたのか。少なくとも互いに唇が赤くなるほどに吸われ、新八が呼吸を許された後、銀八は言った。まるで銀八に身体の力を全て吸い上げられたように、新八は立つことさえままならない。ただ銀八につかまれたままの腕に吊るされるようにして、足を支えていた。
そんな新八に、言葉を捜すだけの余裕があるはずもない。
「せんせぇ!」
腰から両腕で引き寄せられ、新八の視界が無理矢理に上げられる。互いの吐息が頬に触れる。触れ合ったからだから伝わる鼓動が早い。それが恥ずかしく、新八は咄嗟に両腕で逃れようとした。しかし今度は無防備になっていた両足に銀八は強引に自分の足を割り込ませ、思わず新八が竦みあがった。そして銀八の言葉に、新八の身体は今度こそ抵抗を忘れる。
「足りねぇぞ。」
「ひゃぁ・・っん!!」
咄嗟に、声を殺した。新八の耳たぶがゆっくりと舐られる。息が止まってしまう。そんな危機感を覚えて、新八は溺れそうな呼吸を何度も繰り返した。しかし呼吸のたびに、ギシギシと軋みそうなほど胸が痛む。訳が分からない恐怖。本の古い匂いとイチゴ牛乳とタバコの匂い。全てがアンバランスでチグハグ。そんな中で、ただ確かに感じるのは、新八の耳や首を這う銀八の舌と唾液。そんなものが新八を追い立てて、駆り立てた。
「先生。」
指が震えた。その震えに、銀八も気付いているはずだった。しかし銀八はそれを無視して、そのまま新八の肩に、顔を埋める。耳をくすぐる銀八の髪に新八は耐えるしかない。
「新八、コレがお前が忘れろって言う”本当のこと全部”だ。」
ぽつり、と言葉が落とされた。ゆっくりと銀八の身体が離された。それでもまだ、少し近い距離で見下ろされる。新八はその時になり、初めて銀八の茶色だと思っていた瞳が、深い赤なことに気付いた。そんな目に見えることさえ、新八は今まで知らずに居た。それでは、今までただ優しく穏やかだったこの部屋の空気の中に隠されていた、銀八の本当のことなど、分かっているはずがなかったのだ。
「忘れろ、お前も。」
そして完全に離れた銀八は、新八に背を向けた。そのまま机の上にあったタバコを一本取り出し、咥えた。シュッと火を擦る音で、匂いが広がる。
忘れろ。銀八はそう言った。そして新八も忘れてくれと言った。きっと、それが正しい。18年の新八の人生はそう言っている。しかし。
正しいことは、本当のことなのか。
「授業、始まってるぞ。」
こちらを見ようともしない銀八の背中が、新八に言う。新八は、まだ感覚の戻らない身体で少し無理をしながら、戸口へと向かう。今度は、銀八も新八を引きとめはしない。もう授業も始まっていて、戸口の向こうはとても静かだった。だからきっとそれが正しい。
そして新八の手が扉にかかり、そのままカタリと音をたて錠が落とされた。
「えっ・・・。」
新八の後ろで、銀八が振り返った気配がした。新八の手が、鍵から離れる。頭の中ではコレはきっと正しくはないと言っている。しかし同時に、正しくはないが、本当のことだとも言っていた。
正しくない。銀八のいう覚悟もない。きっと時間も気持ちもまだまだ足りないばかりだ。そんなことは分かっている。それでも、今この場所を失いたくはない。忘れたくない。その一心だった。
「もういまさら、戻れません。」
授業にも、今までの正しかったことにも、戻れはしない。
でも、それでも構わない。
振り返り、真っ直ぐに銀八を見据えた。
「もう戻りません。」
正しさとはまた別の先に、坂田銀時が居るのならば、構わない。
今、新八にある覚悟はそれだけだった。
だって知ってしまったのだ。今まで銀八が隠していた、本当のことに。少なくとも新八にとっては、それは正しいことよりもずっと価値があった。
コツリ、コツリと。ゆっくりと近づいてくる銀八を待つ間にも、新八の腕は震えた。でもそれはただの震えではない。未知への恐怖。そしてそれ以上の期待にだ。身長差で出来た影が、新八に落ちる。伸びてきた手が、新八の頬を捉えた。
「じゃあ、返さねぇ。」
指先から香る甘く苦い香り。そして熱。この部屋に溺れそうだ。そう思った新八は、助けを求めて、自分からその腕の中に飛び込んだ。
END


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